この図書館を知ってから
何度この坂道を上っただろう。

僕は18歳になった。
相変わらず僕は友達にも親にも愛想笑いを続けて,当たり障りのない関係を保っていた。
図書館の変化も少ない。
新刊は増えるのに利用する人は増えている気配はない。
移り変わるだけ。

変わった事と言えば身長が父さんより伸びた事。
それに反して外に出る事が少ないせいか色は白くなるばかり。

本ばかり読んでいたから視力も悪くなった。
今ではメガネがないと階段も踏み外す。

あの日は暑い暑い日で,初めて図書館を見つけた日に似ていた。

べたつく汗とそのせいでずり下がるメガネが不快だった。

蝉の鳴き声がうるさくて余計に僕を苛々させる。

眩しくて目を細めて通い慣れたはずの図書館を見た。

もう僕はこの街で迷子になる事はない。
でも未だにこの坂道にだけは6年経っても慣れない。

6年間この図書館の本はほとんど読んだ。
そりゃ僕だって人並みに風邪を引いたり、受験勉強で来れない日もあった。
台風だって6年のうちに何度かこの街を襲った。

毎日は来れなかったけど通い続けた。

やっぱり貸出カードも僕が読む本は空白の物ばかり。

……。
いや…訂正しよう。
空白の物ばかりだった。

僕は6年間この図書館の本をたくさん読んだ。
目の前にある棚の本を全部読む事で僕の目標は達成だ。

その棚も半分以上読んだ。
詳しく言うと僕はあと22冊で2つの目標を達成するはずだった。

そう、いつしか目標が1つ増えていた事に気付いた。
空白の貸出カードのせいだろう。

[図書館の本を全部読む]そして
[貸出カードに1番に名前を書く]
そんないつの間にか増えていた目標が今達成出来なくなった。

僕が最後の棚に選んだのは恋愛物。
照れ臭さが邪魔して後回しにしたんだ。

ただそのせいで僕は酷くショックを受ける事になるなんて12歳の頃は知るよしもない。

僕はある貸出カードから目が離せなかった。
そこには空白ではなく[星原美帆]と名前があった。

図書館という小さな世界で過ごして来た僕にとって、それはとても衝撃を受ける出来事だった。

そうだな…例えるなら全問正解のはずの答案用紙に名前を書き忘れてO点だったとか。

ちょっと違うかな、、、

"あの時のこっちを選んでたら"って思い。
まさしくそれだった。

僕が恋愛物の本から読み始めていたら、この[星原美帆]は僕より前に貸出カードに現れる事はなかったんだ。

実際今までに読んだ本は全部僕の名前で始まっている。

大袈裟だと思うかも知れないけれど、僕は本当に悔しくて悲しかった。

1番を貫けなかったからじゃなくて、こんなちっぽけな世界で生きてきた自分が情けなかったんだ。

動揺した気持ちを落ち着かせて、僕はゆっくりページを開いた。
目で追う文字は僕の頭に簡単には入って来なかった。

内容よりも貸出カードが気になった。
1度本を閉じて辺りを見渡す。

[図書館の本を全部読む]
心の中で呟いてまた本を読み始めた。

気にしない
気にしない…
気にしない……

僕は呪文の様に頭の中で繰り返した。
僕はこの図書館に通い始めて気付いた事が3つある。

1つ目は老人や小さなこどもの利用が多いらしく,僕と近い年齢の人は見かけない事。

図書館の利用証を作る時に司書さんは「10代は3人目だ」と笑顔で教えてくれた。

「本を読むだけなら利用証は必要ないし,みんな面倒で作らないんだろうね」目を細めてそう言うとまた作業に戻った。

だから僕は安心してこの図書館で本を読む事が出来た。

2つ目はほとんどの貸出カードが空白のままな事。

僕が読む本は全て,今まで誰も借りていない様で僕の名前だけが貸出カードに書かれた。

僕が初めてなんだ…
単純だけど,僕はとても嬉しかった。

そう思えば本はどれも綺麗だ。

貸出カードの名前を見つめ,なぜだか誇らしい気持ちになった。

僕は読んだ本全ての貸出カードに
自分の名前を書きたくて,分厚い本は当然ながら
薄い本も図書館では読み切らず借りて帰った。

もちろん棚の本全てを読むのも目標だったので,なるべく1日1冊とペースも決めていた。

3つ目は図書館の中庭がある事。
図書館の裏には大きな木があり,ちょうど日影になる位置にベンチがある。

僕は昼過ぎにここにやって来て,このベンチに座り
波の音や葉っぱの揺れる音を聞きながら本を読むのが好きだった。

そして夕日が沈むのを見届けたら家に帰る。
それが日課だった。
中庭からの夕日は最高なんだ。

館内では「本が傷むからね」と司書さんがいつも太陽が隠れる位置にブラインドを閉めてしまう。

キラキラ光る水面に太陽が飲み込まれるその数分の出来事。

この場所で初めて夕日を見た時,僕は感動して沈んだ後もその場を動けなかった。

いつかお母さんとお父さんに,素直に正直に向き合う事が出来たら
ここの夕日を見せたいな…。

そんな事を考えていた。
僕にとって日に日に図書館への思い入れが強くなっていった。
図書館の扉が開くと涼しい風が僕の髪を撫でる

僕は入ってすぐ目についた椅子に
倒れ込む様に座ると
背負っていたリュックの中からタオルを出して汗を拭いた

貧血のせいか目がまわるので
目を閉じ息を整える

しばらくの間そうして目は閉じていたが,
微かに聞こえる波の音と
風が木を鳴らしているのがわかった

立ち上がって近くにある館内図を見た

ここがホールで向こうが児童書か…
だいたいの位置関係を把握し
階段を上った

大きな棚に本がぎっしり並んでいるのを見るとワクワクした

小さな図書館なので
そこまでたくさんの本があるわけじゃない

すぐに分野ごとの棚を覚えて
何冊か本を手に取り,
窓際の席に向かって歩き出した

自分の足音だけがコツコツ響く

小さい頃から本が好きで
放課後,毎日の様に学校の図書室に行き
本を読んでいた

ある日クラスメートからのサッカーの誘いを断ると
「暗い奴」とみんなに言われた

内気で幼かった僕にとって
その言葉は心に傷を残すには充分過ぎた

その時から
学校の図書室に行くのをやめた

僕は愛想笑いを覚え
友達とも少し距離を取る様に接した

そうなるとますます
内向的になって
家にこもり本ばかり読んだ

お母さんはなんとなく
僕の様子に気付いていたけれど
なにも言わないでいてくれた

お父さんも週に1回くらいのペースで
僕に新しい本を買ってくれた

「玲司,なんか読みたい本あるか?
次どんな本買おうか」

それでも優しくされると
そのたびに胸が痛くなって
甘えることもわがままも
言えなくなってしまった

『お父さんが気になったやつがいいな,
いつもおもしろいの選んでくれるし』

そう言うといつも
少し悲しそうな顔で微笑んで
わかった,と呟いた

席に着くと窓からは歩いてきた坂道と海が見える

穏やかな気分になり景色を見つめた

ここの本を全部読めたらなぁ…
その日をきっかけに僕はこの図書館に通い出した