こんにちは。
皆様お元気ですか?すっかり秋めいてきたというか、いきなり寒くなってきてなんだかな~と感じる今日この頃です。

さてさて、8月に卒論脇見恐怖症の第一章を終えてから、第二章の更新ができず申し訳ありません。読んでいただいている方もけっこういるのにすみません。

実は第二章からExcelで作った図表がたくさん出てくるのですが、それをうまく載せることができなくてずっと試行錯誤しておおりまして(笑)
画像として貼り付けしてるんですが、画面が大きくならないんです。ブログ書くのって難しいですね(´・_・`)どうすれば大きくなるのかな?(笑)

あと、今実家の家を7月終わりからリフォームしてまして、バタバタです
(>人<;)まだ終わらないんですよね~。
まぁ水周りや部屋がきれいに新しくなったのはすごい嬉しいことですが、なんせ片付けが大変で。

そんなこんなで第二章はもう少しお時間をいただけたらと思います。よろしくお願いします(^-^)/

こんにちは。
暑いですね~(x_x;)昨日なんて夜になってもめちゃくちゃ暑くてまじびびりましたよショック!
みなさん夏バテや熱中症にはくれぐれもお気をつけくださいね。
あ、あと昨日はブルームーンといって一ヶ月に満月が二度みれる日だったらしいです。見れた方はいますか??私も外に出でしっかり見てみましたよ(笑)お月様ってなんだか神秘的で見ているだけで癒されますよね(^人^)

では、本日も前回からの続きです。脇見恐怖症論文 第1章第3節です。ここの節は文献やブログやネットでの情報が多いです。こうした体験談を読むと人によって症状やきっかけはさまざまですが脇見恐怖症で悩んでいる人がどれだけ辛い思いをしているのかということがはっきりわかります。ちなみに私は現在はほぼ完治しふつうの生活を送っていますが当時はなにが起きたのかわからず病気だとも思っていなかったので病院とかカウンセリングとかそういうのなんて一切頭になく、我慢して仕事したりしていたら自然に治りました(笑)でもとにかく辛かったです(T▽T;)
それはさておき、今回は内容もけっこう重いし長いですがよろしくで~す(^o^;)




 第三節 文献やインターネットによる症例


 <文献による脇見恐怖の症例>


 ここでは、「対人恐怖の人間学 恥・罪・善悪の彼岸」(内沼幸雄著 弘文堂 1977)の文献を元に、脇見恐怖と思われる症状の体験を述べる。

[症例1]男性。
幼少の頃から甘えた記憶はなく、家が貧しかったせいもあって小学校の頃、親の使い走りをして小銭をためるなど、自立心の強い子であった。
 中学3年の頃から自分でも気づかないうちに赤面していたようで、人から赤面を指摘された。それ以来、赤面恐怖症となった。赤面のために何もできない自分が無念でならず、いろいろと克服しようと努力したが、ますます悪くなり、そればかりか、高校三年の頃から赤面のほかに他人や自分の視線を怖れる症状が加わってきた。自分が変な目つきをしているために相手に嫌な印象を与えているのではないか、自分の視野に入った人たちが落ち着かなくなるので目のやり場に困るようになった。また、“視野そのものが拡がって視野の周辺まで鮮やかに見え、周辺にいる人まで気になった。
自分の嫌な視線を隠すために、電車のなかではいつも新聞で顔を隠すことにしている。”一時は、嫌な目つきを隠すために、眼鏡屋にある最も暗い黒眼鏡を買い求めて使用したこともある。目をつぶしてしまったらどんなに楽かと思った。
 さらに、自分の視野だけでなく、どこに行っても他人の視線が意識され、本屋やデパートに行ってもスリと思われるのではないかと安心していられない。こんなことに怯える自分を鍛え直そうと、自衛隊に入隊したり、…坐禅をしたり徒歩巡礼をしたりしたがいっこうに症状はよくならなかった。…症状がはじまってから、もう11年になる。(9)


 [症例2]女性。
 小学校の頃から恥ずかしがり屋で、人一倍人見知りする方だった。無口でおとなしかったが、一面、勝気で意地っ張りなところがあり、潔癖で曲がったことが嫌いだった。
 中学の頃に発病。この頃、見知らぬ人が向こうからくると、理由もなく顔が赤くなった。
(中略)また、思い出すと、高校の頃“授業を聞いている時に隣の人が自分のことを気にしているのではないか、とふと思って何とも落ち着かない気持ちに陥ったことがある。  
 現在の症状がはっきり出てきたのは、高校を卒業して生命保険会社に入った頃からである。はじめ、一対一で話している時、「相手の隣に人が居ると、その人が自分の視野に入ってきて気になった。その人のどこが気になるわけではない。その人にみられているというわけでもない。ただ、視野に入ってくる他人の全体が気になった。その人に何となく悪い気がしていた。」
 そのうちに、視野に入ってくる人のからだの一部、たとえば、手や足の動きが気になるようになった。その瞬間、どきんとするような、はっと息がつまるような、間の悪い感じに襲われる。「人と話していると、相手は必ずもじもじと手を動かす。自分が意識的に注視したからというのではなく、自分の視野に入ってくると、相手がそうなってしまう。相手に何か悪い気がしてしまう。」実際、相手は怪訝そうな顔をして自分の方をにらみつける。こんな風で、みんなから避けられるようになってゆき、また自分でも人から遠ざかるようになった。
 一年前に会社を辞めて、今はデパートの店員をしているが、症状はいっこうに変わらない。自分が行くと、客は落ち着かない様子でほかの売り場に行ってしまう。客は自分の前を通る時、ポケットに両手を入れたりする。遠くの人も自分が見ると手を顔にもって行ったりする。連鎖反応が起こるらしく、ほかの客も同じことをやる。(10)


 以上、2つの症例を述べたがこの2つに共通することとして、はじめに「赤面恐怖」という対人恐怖の症状が発症していることである。そして、そこから悪化し視線恐怖、そして脇見恐怖(であろう)と発展していくということである。つまり、赤面恐怖という顔が赤くなってしまう状態を相手に知られ馬鹿にされたり変な風に思われやしないかという思いから視線恐怖に発症すると推測する。  
 それは「自分がどう見られているか」という思いが強くなることによって「他人への意識が過剰」になり、最終的に脇見恐怖という症状に変化していくと考えられる。また、症例のなかで「視野が拡がる」という症状はまさしく脇見恐怖の症状であり「見たくないと思うほど見てしまう」といったような精神状態である。この著書は、今から37年前の発行のものであり、この当時から視線恐怖という名の脇見恐怖の症状で悩まされていた人たちが存在したのである。


 この症例が記載されている文献の著者「内沼幸雄」は、この著書以外にいくつか対人恐怖の文献を出している。(内沼幸雄「対人恐怖の心理」羞恥と日本人1997年)の著書のなかでは、脇見恐怖の症状を“視野の破壊力を増大させる視野拡大現象”とよんでいる。また、「ふつうはぼやけてみえるはずの周辺視野まであざやかに見え、あるいはぼやけて見えてもそこに注意がむくために、視野に入った人たちが落ち着かなくなると訴える。」(11)と説明している。
 また、男性の性器のある部分に妙な視線がむくために色目恐怖となり、自分は色気違いだと妄想的に確信するまでにいたる女性もおり、これも視野拡大現象の一特異型であるとした。さらに、「視野の中心部が気にならないというわけではなく、ただふつうは気にならない周辺視野まで明察される結果それにこだわるということだけなので、むしろ全視野を含めて視野拡大現象と呼ぶほうがいい。
 ある学生はこうした症状が目の病気ではないかと思い眼科医をを訪れ、異常なしといわれても納得しない者もいる」(12)と述べている。そして、内沼もこういった視線恐怖には、①「見られる」②「見る」に分類し、「見る―見られる」視線の相互的力学が成り立っていると説明した。


<インターネット上による症例>

 次に、対人恐怖や視線恐怖といったまとまりのなかの脇見恐怖の症例ではなく、脇見恐怖を自覚している「現代社会の脇見恐怖の当事者たち」の症例をインターネットからの情報をもとに述べる。
 現在、インターネットやSNS上で「脇見恐怖症」と検索すると脇見恐怖症の情報や、脇見恐怖で悩む人たちのブログが多く存在する。症例や情報を説明する前になぜ多くの悩める人たちはインターネットに書き込みや情報を発信しているのか。それは、脇見恐怖症のような複雑で理解しにくい心の病で悩む人びとは、病院へ行っても理解してもらえずはっきりとした診断が出ないことから「自分が悩んでいる症状は病気なのか?一体何なのか?」と一人で悶々とした日々を送っている人が多い。
 そうした人たちがインターネットの検索やブログ、SNSなどを通して自分の症状が脇見恐怖であることを知るのである。そして、悩みを共有する「場所」がないためインターネットやSNSに集まって当事者同士情報共有をしていると考えられる。
 この推測は、私自身が実際脇見恐怖の名を知ったきっかけがまさしくインターネットによるものだったからであるが、おそらく他の脇見恐怖の人たちもそうだろうと思われる。これについては、同じ当事者としても大変気になるためアンケートで調査することにする。ここではインターネット上で調査した脇見恐怖の当事者によるブログを中心に述べる。


 あらゆる情報をテーマごとに絞って関連する情報を集め、ユーザーの手によって作成されているサイト「NEVERまとめ」のなかで脇見恐怖症の説明が載せられていたのを発見した。それによると「脇見恐怖症とは、見てはいけないと意識すると過剰に見てしまう病気で、意識しているときは自分では目の動きをコントロールできないため、相手に視線を送ってしまったと罪悪感や自己嫌悪に陥る辛い病気である。
 最初のうちは人に対してしか脇見をしないが、物に対しても脇見をしだすこともある。これにより、他人から変人に思われたり、誤解を招いたりして、人とかかわることが怖くなったりして普通の生活を送ることが難しくなり、うつ病に発展することもある。」(13)と説明されている。
 さらに「もともと、脇見恐怖症という言葉はインターネットで作られたもので認められていない病気なので存在しないものとされている。その理由として、ほかの病気に比べて患者が少ないことだと考えられる」(14)とある。 
 このサイトは、ユーザーが自ら作成しているものであるため医学の観点からすると認められている定義ではないし、正誤性もはっきりしない。しかし、当事者である私自身の見解では脇見恐怖の症状に当てはまる。また、脇見恐怖という言葉はインターネットで作られたものという説明は驚きである。


 次に、実際に脇見恐怖症で悩んでいる人たちがつくった二つのブログをあげるが、事前に作成者に連絡を取り、論文で使用する許可をとった。
 [脇見恐怖症 自己視線恐怖の一種の「脇見恐怖症」と呼ばれる症状に関する情報を集めたサイト]と題して当事者自身が作成したブログがある。そこでは、作成者自身の体験談や、掲示板による脇見恐怖症が集まるリンク、作成者が自ら調べた精神疾患などに関連する文献などが載せられている。掲示板では、多くの人が自分の脇見恐怖に関する症状、意見や対処法について話し合っている様子が見受けられる。そのなかで、このサイトの作成者による体験談の記載があったので私なりにまとめて述べる。


 視線の問題に最初につまづいたのは、小学6年のときのクラスの朝礼のとき、二人の女子から「こっちをみてる」という吹聴から始まった。しかし、この当事者は「見てない」と感じつつも、もしかしてその方向へぼんやりと視線がいっていたのかと、葛藤する。この経験をきっかけに「自分の視線を強く気にする」ようになったと述べている。
 中学校に入り、視線に対する意識はますます強くなっていった。その対象は、友だちや知り合いだけだったのが家族や親戚、学校の生徒や教師、街ですれ違う人や、信号待ちをしているときの道路の反対側の人…など生活のなかで視界に入ってくるすべての人間を意識するようになった。そいうった毎日を送るなかで死んだ方が良いと思うようになった。
 視線の症状で最も苦しかったのが視界の脇に入る人を意識してしまうことだった。学校の教室のような整然と並んだ配置で自分の真横に人が居る状態などは特に辛かった。ついには授業中に目を開けることができなくなり一日中顔をふせて寝たふりをするようになった。誰にも理解されない、常軌を逸した化け物のような人間になってしまったと思った。隣の席の人に、「見ている!」「気持ち悪い」と陰口を言われた。
 隣の人も僕のことを視界に入れないように、頬杖をついたり、髪で横顔を隠したりするようになった。もちろんこれは直接聞いたわけではないのでどこまでが自分の視線のためにやった行為なのか、あるいはまったく関係が無い行為なのかわからなかったがそのわからないことがますます不安を煽った。視線の両脇が気になる癖は人生で最も苦しくて、長引いた症状だった。一体これは何なのか、自分の精神に何が起こっているのか、どんな異世界に入り込んでしまったのか、不安でたまらなかった。
 しかし、高校2年生くらいのときに、図書館にあったぶ厚い精神医学事典の中に「脇見恐怖」という言葉を初めて見つけた。


 このように、作成者は事細かに自身の幼少期からの性格や心理状態を綴っており、作成者がどれだけ辛い思いをしてきたかが伺える。そして、この文章を読んだとき同じ当事者として感動する思いであった。
 では、もう一つ脇見恐怖症で悩んでいる当事者が作成した[脇見恐怖症は克服できる病気です。]というブログを紹介する。
 ここのブログは先ほどのブログとは少し違い、割と楽しげに脇見恐怖症同士がオフ会を開催したレポートなどを綴っていたり、頻繁に更新しているようである。面白いのは、脇見恐怖症同士が集まるオフ会で行われた「脇見をする環境」を意図的につくり上げ、脇見恐怖症の人が脇見をされたらどういう状態になるかというレポートが記載されていたことである。こうした当事者によるブログ内では、自身の症状を自分で「分析」し、当事者同士が語り合って悩みや症状を共有してる。

 また、作成者がブログ内で脇見恐怖の症状の発症のメカニズムの推測を説明しておりとても興味深い。 「周辺視野が強化されたもの」「警戒心からくる自己防衛反応が強化されたもの」といった信頼性の高い推測をしている。特に、「自己防衛反応」はオーストリアの精神分析学者・精神科であるフロイトは「人間は自分にとって害のならない形でうまく加工する“防衛機制”というはたらきをもっている」(15)と論じており、これに近い理論なのかもしれない。

 そして、ここでも脇見の気になる症状のなかで「相手に脇見をしてしまうと相手が嫌そうな不快な行動を起こす」というものに「貧乏ゆすり」「肘立て」「咳払い」が多いと指摘している。これは2節で述べた自己視線恐怖症の定義のなかの「関係妄想」の状態であると思われる。さらにこれまで述べた「自分の視野に相手が入ってしまう」という症状とは別に、人間の「意識」や「気」に関係するものである。作成者は、主観ではあるがこの「意識」や「気」について、「気の拡散や意識の拡大」として説明している。脇見恐怖の症状には、視線以外にこの「意識」についても自分ではコントロールできない状態で「相手に意識を送ってしまう」と話す人が多く、私自身も自分の意識に悩まされていた時期もある。



 このように脇見恐怖症に悩んでいる人たちは自身の体験や症状、心の状態を頭のなかで整理し、思い返し、さまざまな情報(インターネットや文献、テレビ番組等)を元に探り当て、洞察し、少しでも症状が軽くなっていくように、良くなっていくように努力をしているのである。
 また、今話題のSNS(ソーシャルネットワーキングサービス:趣味や嗜好、居住地域、出身校、あるいは「友人の友人」といったつながりを通じて新たな人間関係を構築する場を提供するサービス16)のなかでも有名な[mixi]というサービスがある。そのコミュニティに「脇見恐怖症」と題して脇見恐怖の体験談や当事者同士の語り合いやオフ会の情報を掲載しており、参加人数は400人以上となっている。



 以上、インターネットからの調査では脇見恐怖で悩まされている人たちが現状数多くいることがはっきりと明らかになった。また、第一節の精神医学事典では脇見恐怖の症状についていかに簡単にあっさりと説明されているかがわかると同時に、当時者の体験談により脇見恐怖の症状がいかに複雑でいくつもの症状が存在し、一言では説明できないということがわかる。こうした事前の文献やインターネットによる調査を踏まえたうえで、次章では、実際に脇見恐怖の症状で悩んでいる人たちにアンケート調査を行い、脇見恐怖症の多数の意見を聴取していきたい。
  

こんばんわ。
前回、以外にもいいねやシェアしていただいた方がけっこういらっしゃってとてもうれしっかったです!!(。>0<。)こんなブログを見てくれたなんで感謝ですしょぼんありがとうございましたヾ(@°▽°@)ノ
本日は卒論脇見恐怖症 第1章第2節となります。前回よりも長いので気楽に読んでいただければ幸いです。


第二節 視線恐怖と脇見恐怖との関係


 第1節では、対人恐怖の定義を中心に述べたが、この定義の文言の(2)のなかに「視線恐怖」という言葉があった。この視線恐怖の定義に“脇見恐怖”が出てきており、説明されている。
 新版精神医学事典によれば、視線恐怖とは、「対人恐怖症の一亜型。正視恐怖症ともいう。青年期好発。人の前に出ると視線が気になり、落ち着きを失い、それゆえに相手に馬鹿にされると考え、ついつい人前を避ける。いくつかの段階が考えられる。①人みしりといわれる程度の正常範囲内の対人緊張,②恐怖神経症の段階のもので、馬鹿馬鹿しいと思うが気になって仕方がない場合,③関係妄想性を帯び、たしかに相手に見られ馬鹿にされていると信じこむ場合,④統合失調症の初期症状としての関係妄想の一環として他人が意味ありげに自分を視ているという絶対的確信をもつ場合,の四つを一応区別できる。」(5:加藤正明ほか「新版 精神医学事典」弘文堂新版1993年P309)
とある。


 そして、この視線恐怖の構造の説明のなかに脇見恐怖の症状が記されている。「構造的に次の二つに分けることも臨床的に有用である。(a)面前する他人の眼が自分を視ていることが気になる場合と,(b)自分の視線が面前する他人を心ならずも視てしまうことで悩む場合とである。後者について今少し付言すると、そこでは、『自分がいやらしい目付で、面前の相手に不快な感情を起こさせたり、その人の心を傷つけたりする』のである。したがって、(a)見られる恐怖に対し(b)は見てしまう恐怖、あるいは見えすぎる恐怖といってもよい。『見えすぎる』というのは(b)のタイプの視線恐怖患者がよくいう言葉で、また『自分の視野がひろすぎ』たり、『脇見をすぐしてしまう』ともいう(脇見恐怖)。このように(b)では自分の視線が問題なので、自己視線恐怖と呼んで区別するこもある[笠原嘉・藤縄昭ら1972]。自己視線恐怖は先に述べた段階的区分でいうと、単なる恐怖神経症(2)をこえて、関係妄想的段階(3)にまで至ることが多い。したがって重症対人恐怖症といったり、思春期妄想症[植本行男、村上靖彦1985]よ呼んだりもする。また、自己視線恐怖症は自己臭症同様、何かが自分の内から漏れ出て相手を傷つけるという構造の自我障害をもつから、この点に着目して自我漏洩症状[藤縄、笠原ら]として一括することもある。」(6:5に同じP309~P310)


 また、現代精神医学事典によれば、視線恐怖の定義として「視線に関連する対人恐怖の一亜型。人前で他者に見られることを恐れる場合と、自分の視線が不快な印象を与える特徴をもつゆえに他者に忌避されると考える自己視線恐怖とに大別される。前者は内沼幸雄[1977]によるとしばしば赤面恐怖からの症状変遷において生じ、DSM-Ⅳにおける社会不安障害(so-cial anxiety disorder)と重なる部分がある一方、精神病性の注察念慮につながる症例もある。後者は対人恐怖の中ではやや遅く、青年期後期に好発し、自分の目つきが悪かったり、視線がいやらしかったりするために他者に不快感を与えるという悩みのほかに、そうした視線を発する範囲が拡大して、視野に入ってくる人を見てしまう、横に視線がいってしまうという脇目恐怖を示すこともある。自分の視線のために他者に忌避されるという関係妄想性を帯びるという意味で、対人恐怖の中では重症型とされる一方、自己臭症とともに自我漏洩症状にも数えられる」(7:加藤敏ほか「現代精神医学事典」2011年弘文堂P417)と説明されている。


 この2つの精神医学事典から共通することとして、脇見恐怖であろうとされる症状が「自己視線恐怖症」という名称で記載されているということである。つまり、視線恐怖には、脇見恐怖や自己視線恐怖などの“自分の視線が気になる”症状と、“他人の視線が気になる”他者視線恐怖(おそらく名称としては存在しない)に大きく分類される。
 新版精神医学事典によれば「自己視線恐怖とは、『特定の対人状況において自己の視線が異様な鋭さ、ないしは醜さを発し、それゆえに面前する他者を傷つけ不快にすると信じ悩む病態』と定義される対人恐怖の一型である。鋭すぎる、きつすぎる、いやらしいなど自分の視線に対する極度の悪しきイメージを抱き、その視線が他者に悪しき影響を与えてしまうことへの恐怖感を訴えるものである。そのため他者がなんらかの反応をしているという確信を抱きやすいという点で関係妄想性を帯びているのも特徴である。疾病論的には、神経症と統合失調症との境界という意味での境界例に含められることもあり、あるいは対人恐怖の重症型という意味で自己臭恐怖などとともに重症対人恐怖症に含められることもある。妄想状態が持続しているものは自己視線パラノイアとする考えもある。他の対人恐怖症状より発症年齢は遅めで高校から大学にかけてのものが多い。長期経過をみると、一過性の精神病状態はみられても人格の解体や欠陥には陥らず、強迫と妄想状態の間を動揺していくが、30歳を過ぎる頃から自己視線そのものを悩み続ける傾向は薄らぎ、なんとか社会生活をしているという準適応状態で、ひっそりと暮らしていることが多い。」(8:加藤正明ほか 「新版 精神医学事典」弘文堂新版1993年 P299)


 この自己視線恐怖と脇見恐怖は症状が一番近く、当時者の私からすると自己視線恐怖に付け加えて“横にいる人にも視線が入ってしまう”という症状が脇見恐怖なのではないかと考える。
ここまでの事典調査からわかったことをまとめると現時点では、精神医学事典で「脇見恐怖」の名称で定義された項目はない。具体的に「脇見恐怖は対人恐怖という大きな枠組みのなかの症状の一つとして“視線恐怖”があり、そして、視線恐怖の構造を区分したうちの一つである。また、視線恐怖の種類に他人の視線が気になる他者視線恐怖と自己の視線が気になる自己視線恐怖とに区分でき、この自己視線恐怖に最も近いものが“脇見恐怖”である」という位置づけになる。


 これまで述べたように、脇見恐怖症のしっかりとした定義がなく、現在「脇見恐怖」のみに関した著書は見つからず、対人恐怖や視線恐怖のなかの症例として記載されている状況である。しかし、情報化社会という現代社会において、対人関係における悩みや疾患は増加し続けており、対人恐怖や対人不安の要因から発症する「脇見恐怖症患者」も共に増加しているだろうと考えられる。実際にインターネットやSNS上では、数多くの脇見恐怖で悩む人たちのブログや情報が存在することに驚かされる。次節では、対人恐怖の文献とインターネット上で訴える当時者によるブログを中心に述べる。