25年前の神戸の街

 

FaOIの出演者やスタッフが宿泊するホテル周辺も酷かった

 

震災後 神戸新聞社と朝日新聞社から出版された写真集を撮ってみた

 

新神戸駅から三宮へ南下する大通り 奥に傾きかけた 柏井ビル

夕方には完全に倒れ 道路をふさいでしまった

スキーバスで到着後 このビルにある会社に立ち寄ったうちの近所の青年が

エレベーターに閉じ込められ 少しずつ傾く時の振動で開いた扉から脱出したが

てっきり北朝鮮が攻めてきたと思ったらしい

 

  

         神戸随一の夜の街が     どんな力が働けば この様に?

 

火災

瓦礫の下敷きになった人が

迫り来る火にも拘らず 助け出そうとする友に

『もういいから逃げて‥』と言い

断腸の思いでその場を離れた人が何人も居たとか

今も辛いだろうな と想像するだけで悲しい

 

稀に消防車が到着しても水が出ず 他県のホースとは繋ぎが合わず

ほとんどの火災は 燃え尽きて鎮火

『水で消火された普通の火事場とは匂いが違う』とは

震災直後 車では通れない町中を 原付で走り回った 亡き夫の弁

 

大正筋商店街

今は立派な建物になったが 高いテナント料や住人が戻らない所為で寂れている

 

 

 



ボランティア元年と言われ

その後の災害の大きな試金石になったのは知られているが

 

家が全壊判定でも

当時は 国からは支援金は全く無く

過去に例がないほど多く集まった義援金も

都市部の人口密集地のため

被災者の数で割れば わずかな金額しか届かなかった

住んでいたアパートが半壊判定(実質 全壊)の知人が受け取ったのは

わずか10万余り

 

 

それを是正するため

この当時の被災者とボランティアが力を合わせて

国に働きかけ

大きな災害時には 国からも支援金が支払われることになり

 

その後の災害の被災者が

少しまとまった額を受け取ることが出来るようになったのは

あまり知られていない