最近、ふと思うことがあります。

私は、そんなに「すごい人」になりたいわけじゃないのかもしれない。

たくさんのお金を持っていること。
華やかな場所にいること。
たくさんの人に知られていること。
「すごいですね」と言われること。

以前は、そういうものに憧れていた時期もありました。

起業している人を見ると、すごいなと思ったし、成功している女性を見ると、「私もこんなふうになれたら」と思った。

でも、いつからでしょう。

そういう世界を見ていると、少し疲れるようになりました。

「私はこんなに成功しています」
「こんなものを手に入れました」
「こんな人たちとつながっています」

そんな華やかさを見ても、以前のように心が動かない。

むしろ、

「私は、そんなに頑張って誰かに認めてもらわなくてもいいかな」

と思うようになったのです。

そして、最近いちばんしっくりくる言葉が、

「森に住むモブでいたい」

でした。

(笑)

主人公じゃなくていい。

物語の中心にいなくてもいい。

誰かに憧れられなくてもいい。

森の中の小さな家で暮らして、朝起きて、今日は天気がいいなと思ったり、雨なら本を読んで過ごしたり。

季節が変わったら、その変化を感じる。

おいしいものを食べて、好きな本を読んで、たまに町へ出て、また森に帰る。

そんな人生が、今の私にはとても贅沢に思える。

もちろん、お金がいらないわけじゃない。

豊かであることが悪いとも思わない。

華やかな世界で生きることを否定したいわけでもありません。

ただ、

「人からどう見えるか」

よりも、

「自分がどう感じているか」

のほうを大切にしたくなった。

それだけなのだと思います。

そして、ここで気をつけたいこともあります。

「華やかな人はダメ」
「成功を求める人は承認欲求が強い」
「ひっそり生きるほうが本物」

……そんなふうに反対側を否定し始めたら、結局また誰かと比べていることになる。

だから、そこまでは言わない。

ただ私は、

「私はもう、そちらを目指さなくてもいいんだな」

と思った。

それだけ。

誰かの人生を否定しなくても、自分の人生は選べる。

それって、意外と自由なことなのかもしれません。

昔の私は、「何者かにならなければ」と思っていたのかもしれない。

でも今は、

何者でもない自分で、ちゃんと幸せでいられること。

それもひとつの豊かさなんじゃないかと思っています。

森の中のモブ。

誰にも気づかれないかもしれない。

でも、自分はちゃんと自分の人生を生きている。

それなら、それでいい。

むしろ私は、

そんな人生がいい。



大木ゆきのさんのAmeblo投稿「嫉妬してる場合か」を読んで、嫉妬について自分なりに考察してみました。


「どうしてこんなに嫉妬してしまうんだろう」

「もう手放したいのに、何年も同じ感情が消えない」


そんなふうに感じたことはありませんか?


嫉妬という感情は、できれば感じる機会を減らしたいものとして扱われがちです。

でもそれは、無理に消そうとする対象ではなく、

ちゃんと意味を持って現れている感情です。


嫉妬は、単なる「誰かが羨ましい」という気持ちではありません。


その奥には、

本当は自分も欲しかったもの

本当は自分がなりたかった姿

失いたくなかった大切なもの


そんな、自分の本音が含まれています。


だからこそ、簡単には消えないのです。


さらにその奥には、

「もっと丁寧に扱われたかった」

「きちんと見てもらいたかった」

「自分の価値を大切にしてほしかった」


という、とても繊細で大切な願いが隠れています。


ここに気づかないまま、嫉妬という感情だけをどうにかしようとすると、

その感情は形を変えながら、長く心に残り続けます。


ではなぜ、嫉妬は何年も続くのでしょうか。


それはシンプルに言うと、

「終わっていない体験」だからです。


人の心は、納得できていない出来事や、意味づけが曖昧なままの体験を、

何度も繰り返し思い出す性質があります。


なぜあんな扱いだったのか

自分はどんな存在だったのか

本当はどうありたかったのか


こうした問いに対する答えが、自分の中で整理されていないと、

そのときの感情は、まるで今起きていることのように繰り返されます。


そしてもうひとつ、大きなポイントがあります。


それは、

「あの出来事」と「自分の価値」が

結びついてしまっていることです。


誰かにどう扱われたかが、

自分の価値そのもののように感じられてしまう。


そうなると、その出来事を手放そうとしたときに、

自分の価値まで手放してしまうような感覚が生まれます。


だから、なかなか離れられない。


けれど本来、このふたつはまったく別のものです。


誰かの評価や態度と、

あなた自身の価値は切り離して考えていい。


この視点を持てたとき、

感情は少しずつ静かになっていきます。


では、どうすればいいのでしょうか。


必要なのは、

感情を消すことではなく、

その感情が持っている「意味」を終わらせることです。


「あの出来事=自分の価値ではない」と理解すること。

そして、「本当はどんな扱いを受けたかったのか」を、自分の中で明確にすること。


過去の出来事の中で証明しようとしなくていい。

あの人に理解してもらう必要もありません。


これから自分が、

どんな場所で

どんな人と

どんな関係性の中で生きていきたいのか。


そこを、自分で選び直していくことのほうが、

ずっと大切です。


嫉妬は、弱さの表れではありません。


それは、

「本当はもっと大切に扱われる存在である」と

自分が知っているからこそ生まれる感情です。


だからこそ、無理に抑え込むのではなく、

その奥にある本音を丁寧に見つめていく。


そのプロセスの中で、

嫉妬は少しずつ役目を終え、

あなたを前に進めるエネルギーへと変わっていきます。

🌿Today’s good feeling Question

今までの経験を通して、あなたはどんな扱いを受けると心地よく感じますか?そしてこれから、どんな関係性の中で生きていきたいと感じていますか?



人間関係で悩んでいるとき、

つい、こう思ってしまうことはありませんか?

「どうしてわかってくれないんだろう」

「こうしてくれたらいいのに」

でもその奥には、

“期待”があることも多いものです。


今日は、ひとつの有名な言葉を

紹介させてください。

「ゲシュタルトの祈り」と呼ばれるものです。


わたしはわたしの人生を生き、

あなたはあなたの人生を生きる。

わたしはあなたの期待にこたえるために生きているのではないし、

あなたもわたしの期待にこたえるために生きているのではない。

私は私。

あなたはあなた。

もし縁があって、私たちが互いに出会えるならそれは素晴らしいことだ。

しかし出会えないのであれば、それも仕方のないことだ。

少し冷たく感じる人も

いるかもしれません。

でもこれは、

「突き放す言葉」ではなくて、

お互いを尊重するための言葉です。

人は、自分の人生を生きています。

それぞれに背景があって、価値観があって、

大切にしているものがあります。

だから、

思い通りに動かそうとすればするほど、

苦しくなっていく。

でも逆に、

「私は私、あなたはあなた」

と静かに線を引けたとき、

関係は不思議と

楽になっていきます。

期待を手放すというのは、

諦めることではなくて、

相手をそのまま認めること。

そして同時に、

自分のことも

大切にするということ。

それでも、

もし同じ方向を向けたとしたら。

もし自然と歩み寄れたとしたら。

それはとても

尊いことなのだと思います。

無理に繋ぎ止めなくてもいい。

無理にわかり合おうとしなくてもいい。


それでもなお、

一緒にいられる関係は、

きっととてもやさしくて、

強いものだから。

🌿Today’s good feeling Question

誰かに対して、

「こうしてほしい」と期待していることはありますか?

それを少し手放したとき、

どんな感覚が生まれそうでしょうか?