好き嫌いで仕事をしないのが、プロフェッショナルのひとつの条件ですよね♪
とはいえ、「感情の動物としての人間」という側面から完全に自由にはなれない、というのも、残念ながら事実なのかな・・・と思うことがよくあります
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たとえば、音楽評論などを見ていてもそうですね( ̄ー ̄;。
クラシック音楽でも、たとえば、ドイツ・オーストリア系の音楽にはシンパシーを感じるけれども、ロシア・東欧系には、なんとなく抵抗を感じる、というような個人的な感情をもっている人だって、評論家の中には、ちょくちょくいます
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ただ、プロとして、そうした感情をオモテに出さないだけなのでしょう!
しかし、そうやって、客観的なポーズを見せることが逆に、マイナスに作用しているケースを、しばしば見かけるのも事実です(´□`。)。
というのも、自分がシンパシーを感じる作曲家の楽曲の演奏と、そうでない作曲家の楽曲の演奏とでは、評論のスタンスに大きな相違が見出されることがよくあるからです。
にもかかわらず、「客観的」を装っているために、こちらとしては、よほど注意深く観察していない限り、見破りにくいから厄介なのです。
シンパシーを感じている場合には、その楽曲の本来の魅力を徹底的に掘り下げたような演奏を正当に評価しています。
そうした、その作曲家特有の魅力というのは、しかし、嫌いな人にとっては、単なる「臭み」にしか感じられない場合があります。
そのせいでしょうか、その作曲家に対して嫌悪感をもっていたり、まるで興味がない場合には、そうした「臭み」を徹底的に排除したような、「脱色系・脱臭系」の演奏を高く評価しやすいという傾向が見られるようです。
私は、1愛好家として、たとえば、チャイコフスキーの「悲愴」は、泥臭くて陰鬱で嫌いなので、この曲を聴く場合は、フランスのジャン・マルティノンがウィーン・フィルを指揮した、この上なく明るく洗練された、気品高い、スタイリッシュな演奏を選びます。
まさに「脱臭系」演奏ですよね(笑)
そして、1愛好家に過ぎない私は、そうした自分の好みやスタンスを、隠さすことなく、堂々と主張します。
ところが、いったん評論家という社会的な立場に立った人は、どこまでも「客観的」という姿勢を、強調しないといけないのでしょう。
しかし、そんな「彼」「彼女」とて、人間としての側面から完全に自由にはなり切れず、上記の私と同様の選択をしている場合が多々あるということなのでしょう。
しかも悪いことに、その事実を明かすことなく、メディアで「評論」として表明してしまうために、愛好家などのエンドユーザーは、それと知らずに、そのまま真に受けてしまい、ミスリードされてしまうんです。
シューベルト臭い演奏のCDを買いたいのに、著名な評論家が絶賛しているということで、そうとは知らずに「脱臭系」の演奏を買い求めてしまい、失望し、悪くすれば、せっかく好きになりかけたクラシック音楽への興味も減退してしまうことだってあります。
日本人は、昔から「権威筋」の言ったことには従順に従う傾向があり、有名な評論家先生がおっしゃったことなら信用する、という行動パターンが、今なお見られます。
そのこと自体を否定するつもりはありませんが、評論家とて人の子だということを認識した上で、音楽評論を、そういう目で見た方が、より間違いの少ない選択ができるのではないか・・・というのが、音楽愛好歴40年の私の意見です。
逆にそうすることで、(評論家の先生方には申し訳ないですが)評論家先生の使い分けができて、愛好家としての「楽しみ」も増えるかもしれませんし・・・・v(^-^)v