優*游涵泳

優*游涵泳

語りえぬものについてこそ、語ることを試みつゝ。

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気づけば年を越してしまったものの、今季の弁論『後世への最大遺物』を自身の中で反芻することにします。今回も2つの全国大会にご縁をいただき、文部科学大臣杯では、高校生ぶりに山頂の景色を見ることとなりました。谷底の景色と表裏一体ではある訳ですが、まずはこの結果を以て身近な方々が喜んでくださったことに関しては素直に嬉しかったです。

 

●第67回文部科学大臣杯全国青年弁論大会

最優秀賞・文部科学大臣杯・宮城県知事賞・宮城県教育委員会賞・日本弁論連盟会長賞

 

●第20回尾崎行雄(咢堂)杯演説大会

優良賞

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演題である「後世への最大遺物」は、思想家の内村鑑三の著書からいただきました。本書は、内村が行った講演の内容を収めたもので、人間が後世に遺せるものは何か、という問いをじわじわと紐解き、熱を帯びながら訴えかけるものです。彼の結論は実際に著書を読んでいただけたらと思いますが、私は、これの令和版を作ることを試みました。かつ、自分が携わっている土木工学分野への架け橋となるような原稿ということで、工学と哲学を、仏教の観念で繋ぐという構成です。具体から抽象へ、平静から熱情へ、という言葉と感情の流れは、昨年のスタイルを踏襲することにしました。7分でまとめ切るには、相当に骨の折れる論旨でした。

 

加えて、今年は2つの大会が連日行われたため、土曜は神奈川、日曜は宮城と、コンディションの調整にも気を遣うスケジュールでした。大会が異なれば、当然お客様も異なります。土曜日に開催された尾崎行雄杯では、開催地が神奈川県であることも踏まえ、2023年が関東大震災から100年であることの注意喚起から語り始めました。対して文部科学大臣杯では、「私とは、私と私の環境である」という哲学者オルテガの引用から始まり、日本の伝統的自然観を辿るところから始めました。

 

今回の弁論におけるキーワードは、「共助」と「利他」です。分断の時代。ご近所付き合いもままならない中で、地域での防災活動における「共助」を実現するにはどうすればよいのか。ここから出発し、地震工学をご専門としていらっしゃる小長井一男先生へのインタビューを契機に、大乗仏教の「利他」との結びつきを考えてゆきました。そして、では私たち一般人ができることとは結局なんなのか。お年寄りでも、中高生でも実践でき得ることはなんなのか。それを着地点とし、どうにか形になりました。文字だけを追えば、いくらでも掘り下げる余地がある出来栄えです。しかし、7分で要点を伝えきり、かつ聞き手の集中を保ち、思考や行動の変容を促すには、情報の粒度としては適切だったのではないかと思います。

 

大会史上初の東北開催ということで、現地の方々にも寄り添える語りも目指しました。よそ者が被災地で何を語ろうと真新しさはないかも知れませんが、現地の審査員の先生方からも一定の評価をいただけたということは、多少の意味はあったのだろうと思います。会場で笑顔で対応してくださった現地の高校生たちにも、ささやかな心の手土産を渡せていることを願うばかりです。

 

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「死を語る弁士」であることを自らに課しながら続けている弁論活動。そもそも何故、こんなにも苦しい営みを、誰からも強いられていないにも関わらず、自らに強いているのか。昨年の大会を終えてからすぐ、原点を突き詰める1年を過ごしました。これは、私の働き方の変化に依るところも大きく、自分が社会で果たすべき役割と、その一環としてできる弁論活動の繋がりにこだわった結果でもあります。

そして自分が行き着いた答えはシンプルで、自分の弁論活動は、教育活動に他ならない、ということでした。学習塾、家庭教師、私立大学、国立大学と、私のキャリアの大部分は教育機関で積み重なっています。2020年から参画している株式会社カエカで担っているのも、伝え方の教育事業です。塾講師の父と小学校教諭の母のもとで育ち、苦難の末に一児の母となった自分にとって、教育は常に自分の関心事でした。

 

大学教員に憧れた時代もありましたが、あまりそのような資質はないだろうという自己認識の末、先生方や学生さんにお力添えをする職員という立場で教育に携わっています。縁の下の力持ちという側面が強いですが、私はそこにやりがいを見出していました。多くの学生さんからは見えない黒子。そんな方々がたくさんいてこそ、教育も研究も円滑に進みます。

 

そんな私ですから、何かの専門家ではありません。ただ、導かれるままに続けている弁論でも何か役に立てるのではないか、という気持ちで、中高生や大学生の心に残るような弁論を試みています。専門家に囲まれている環境を生かし、学問と日常を繋ぐというのが私の弁論のスタイルです。毎回、何かしらの耳慣れない概念や専門用語を取り入れ、ただし具体例はあくまで身近なもの、という形で、難度のバランスを取ってきました。それでも「難しい」とのご感想が多く、私は自身のこだわりで、当日まで誰にも原稿を見せないようにしているため、適切な塩梅は毎年の課題です。

 

 

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文部科学大臣杯に関しては、今回の受賞を以て卒業となるそうです。次回からは、観客ないし運営のお手伝いなどで、引き続き弁士の皆様から学ばせていただきます。また、社会人弁論部での活動も裾野を広げ、部員同士の研鑽だけに終始せず、そこで得た知見を他分野で活かしていくことで、社会貢献の道筋を作っていくことを目標としています。弁論界隈の中でもまだまだ形式による分断はありますので、双方のよさを取り入れ、多くの方が、様々な手法で伝えることと向き合っていけるような土壌を耕していけるよう、仲間と共に少しずつ挑戦していきたいと思います。

 

私は、「死を語る弁士」として、昨年までの弁論ではずっと、必ず、亡くなった誰かに言及しながら原稿を綴ってきました。それが、私にとっての追善供養だったからです。しかし平時は、死別の痛みは忘れなければ生きていけません。そして小長井先生は、「人は忘れる」ということを、繰り返しおっしゃる方でした。最後に、そんな経緯を踏まえて、小長井先生と交わした言葉の一部を残します。

 

有馬:

忘れることで生きている自分だからこそ、時に、その痛みをあえて掘り起こして、語り部にならねばならない。そう思って、30歳になってから、弁論を再開しました。そしてもっと多くの方の命に繋がる話ができないものかと、土木、特に防災のテーマを取り上げてみようと思いました。
小長井先生: 親鸞の教えを強く受けた唯円の「歎異抄」を思い出してしまいました。幾多の不条理や死(別れ)を見る中で、自分ひとりだけではなく、つながりの中で人の命の価値を尊重していく「歎異抄」の説くことにも共通するものを感じました。

 

2023年、新たな修行の始まりです。

例年よりも暖かさの残っていた11月、手首には毎年恒例のお守りを身につけ、今季の弁論『砂上の死生学論考』を発表しました。様々な意味で「攻めた」弁論で、最も改稿に苦しみ、最後の最後まで、本番話している最中まで、言葉選びを模索し続けた作品でした。結果として(それが幸か不幸かは別として)、2つの全国大会で準優勝相当の賞をいただくことができました。

 

●第66回文部科学大臣杯全国青年弁論大会

優秀賞・一宮市長賞・日本弁論連盟会長賞

 

●第19回尾崎行雄(咢堂)杯演説大会

優秀賞

 

 

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死の儀式の簡略化・形骸化は以前より危惧されていたことですが、それが身近なこととして認知されたのは、コロナ以降ではないかと思います。とりわけ、コロナによって亡くなった方に関しては、骨になってから遺族と対面するといったケースも報道されています。遺された者にとって、このような「死を受け入れるプロセス」の揺らぎは、その後の人生を歩む上でも大きな影響をもたらす問題です。その点を指摘した上で、失われつつある儀式に代わり、私たちは、死の共同性を取り戻す必要があるということを述べました。

 

この弁論に限ったことではありませんが、私が死生観を題材に選び続けるのは、私の主張に納得してほしいからではなく、お一人おひとりに、死生観について考えていただきたいからです。有馬弁士としての私は「死を語るべし」と繰り返し説きますが、私個人の中には、「死については沈黙を守るべし」という価値観も同時に存在しており、そしてどちらも正しいのだと思います。それでも尚、「死を語るべし」ということを有馬弁士に言わせるのは、茫漠と生きていると、死生観に向き合う機会が、なかなか訪れないからです。行き着く先が「沈黙を守るべし」であったとしても、そこにたどり着くには、語ることにより、他者の死生観を検討し続け、自身の死生観を確認し続ける必要があります。だからこそ、弁論という形式においては、「死を語るべし」の姿勢を貫くことを選んでいます。

 

弁論の正誤・巧拙・美醜などは、作品として一定の価値基準にはなるかと思いますが、何より大切なのは、それを耳にした聞き手が、何を思い出し、何を感じ、何を考え、そして何をしていくかです。結論が曖昧になるという競技上の不利益は自覚しながらも、ある程度の抽象度を保っておかねば、ますます聞き手の考える余地を奪ってしまう。その微かな余地を守るために最適なラインを、これまでも探り、これからも探っていく。それが私の弁論の特徴であり、面倒臭さであり、(一部の人にとっては)面白さでもあるのではないでしょうか。

 

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詳細は割愛しますが、技巧的にもいくつか新しい挑戦をしてみました。というより、有馬弁士に挑戦を課しました。論の構成、言葉遣い、声の出し方、身振りなど、有馬弁士が内に内に閉じようとしている熱い感情を、じわじわと解放する形を目指しました。それはしっかり聞いている方にも伝わったと思いますし、題材はシリアスでありながら、当の本人はとても楽しみながら作ることのできる弁論となりました。

 

弁論でも触れましたが、仏教には「追善供養」という考え方があります。遺された者たちが、現世で善い行いを積み重ねることにより、亡くなった方の冥福を祈るものです。もともと日本には、お盆やお彼岸といった追善供養の習慣があります。仏壇に向かうのも追善供養です。そして私にとっては、「死を語る弁士」で在ることも、追善供養です。

 

演題は、「砂上の楼閣」という新約聖書に由来する古事成語から着想しました。どんなに立派な建物も、砂粒の上では倒れてしまう。今、私たちの死生観は、そのような状態なのだろうと思います。人生は誰のものなのか。命は誰のものなのか。そんな問いも含めて、死生観を問ううち、これは自分一人では完結できない観念だと気づくでしょう。バラバラの砂粒を繋ぎ合わせ、盤石な人間関係の基盤を作る。そこからやっと、共同体としての思想を構築していけるのだと思います。これは、「悲しみの当事者を『私』から、『私たち』へ」、というメッセージに託しました。

 

そして、ウィトゲンシュタインの名著『論理哲学論考』へのオマージュも、当然含んでいます。通称『論考』と親しまれるこの哲学書の名文句「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」に対するアンチテーゼとしての弁論・・・と思うのは早計で、『論考』における本質は、語り得るものを明晰に語り切ることにより、本当に語り得ないものを浮き彫りにする、ということです。私の弁論のコンセプトはここに通じます。

 

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どちらの大会も、馴染みの方々が駆けつけてくださったり、動画を観た方がご感想をくださったりと、人の暖かさを実感する瞬間がたくさんありました。そしてその暖かな言葉の中には、少なからず身近な死者たちの面影がありました。そんな時こそ思うのです、ひとつの弁論が語られた先の社会を作るのは、「私」ではなく、「私たち」なのだと。

今季の演説『大衆社会への反定立』を成仏させます。いつもどおり、お世話になった資料たちをご紹介いたします。順不同ですがご容赦ください。

今回の演説は、およそ2年前、横浜国立大学学長主催「ささらサロン」にて発表させていただいた『ささらの森』という作文が出発点でした。御清聴、誠にありがとうございました。

 

<Books>

ギルバート・キース・チェスタトン『正統とは何か』

ジグムント・バウマン『リキッド・モダニティを読みとく』

中島岳志『NHKテキスト 100分de名著 オルテガー大衆の反逆』

中島岳志『「リベラル保守」宣言』

夏目漱石『私の個人主義』

畑中章宏『死者の民主主義』

藤井聡『新・政の哲学』

 

<Journal>

大山耕輔(2008)「『民主主義の失敗』と若者世代の対応 : 持続可能なガバナンスのために」, 慶應義塾創立一五〇年記念法学部論文集(2008) ,pp.107-132

澤井敦(2013)「読み換えられる不安 : ジグムント・バウマンの「不安の社会学」をめぐって」,慶應義塾大学法学研究会

中山健二郎(2018)「メディア・スポーツをめぐる「炎上」現象に関する一考察」, 立教大学大学院『コミュニティ福祉学研究科紀要 第16号』

村上登司文(2018)「戦争体験を第 4 世代(次世代)に語り継ぐ平和教育の考察」, 『広島平和科学』40(2018)pp. 33-50

天井洋平・大嶋英雄・芝雄正・杉本悠・長森浩平(2013)「現代日本に見る社会の 大衆化に関する一考察」, 京都大学大学院 工学研究科

 

<Article>

法務省: 憲法の意義

厚生労働省: 『新しい生活様式』の実践例

NHK解説委員室: 『後退する世界の民主主義』(時論公論)

NHK for School: [戦後75年]戦争について考えてみよう

NHK for School: [新型コロナウイルス]『危機の中だからこそ 民主主義の強化を』

NHK for School: コロナ後の社会 日本の若者『デジタル環境強化』望む声

朝日新聞: ロスジェネ、置き去りの20年 いま再び注目される訳

朝日新聞: (社説)戦後75年の現在地 不戦と民主の誓い、新たに

東洋経済: 『日本の民主主義』が世界で評価されない理由

東洋経済: 死者をないがしろにする日本はおかしすぎる

日本経済新聞: 世界に迫る無秩序の影 終戦75年、戦後民主主義の岐路

日経ビジネス: ITで新型コロナ抑えた台湾の駐日代表『民主主義の底力見せた』

日経ビジネス: 若い世代中心に広がる「民主主義」不信

毎日新聞: 新型コロナと憲法 民主主義を深化させよう

東京新聞: <戦後75年>教育勅語からの脱却 「子どものための国」に

REUTERS: 新型コロナ対策が民主主義への脅威に、元政治指導者らが警告

AFP BB News: コロナ禍を権力強化に利用、民主主義は弱体化 著名人らが警告

新型コロナウイルスと民主主義の将来

IDEA: COVID-19 crisis threatens democracy, leading world figures warn

YAHOO!ニュース: コロナ時代は権威主義体制の方がいい?日本の対策と民主主義の課題とは

以文社: 20世紀知の見取り図と「戦後民主主義」の風景/大田英昭

【特別企画】多様性ある社会: 多様性を承認する「トポス」と宗教が果たす役割

ChuoOnline: ポピュリズムは、民主主義への脅威か?

JCIE: 第2回 民主主義の未来 Webinar 『フィリピンに学ぶ、新型コロナ対策の民主主義への脅威』を開催しました

GLOBE+: 政治のことは嫌いでも、民主主義は嫌いにならないで

マーケの得だね!: 民主主義を脅かす最大の脅威? ソーシャルメディアの新たな現実

AMNESTY: 新型コロナウイルスと人権:分断ではなく、団結の時

 

<Special Thanks>

プレ・ささらの皆様

横浜国立大学の皆様

株式会社カエカの皆様

大会関係者の皆様

恩師、友人、家族、空の子供たち

11月28日、尾崎行雄を全国に発信する会主催「第18回 尾崎行雄(咢堂)杯演説大会」にて、優良賞をいただきました。順位という意味では昨年の自分を越えることはできませんでしたが、自分の中で改善したかったこと、挑戦したかったことを形にすることができ、弁士の幅としては成長を感じられた大会でした。

 

新型コロナウイルス感染予防として、入場時の検温とアルコール消毒、登壇時以外のマスク着用、収容人数の制限、懇親会の中止など、これまでとは少し異なる雰囲気で開催されました。とはいえ、ゲスト講演には石破茂氏を迎え、例年のような熱気を感じる1日でした。

 

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 今回は「大衆社会への反定立」という演題を掲げ、民主主義の精神の土台となる部分について、私なりの考えを言葉にしました。村社会に見られるような世代間交流は減少し、加えて新型コロナウイルスの拡大によって他者との関係性を意識する機会が減ってしまった2020年。メディア情報に流されてしまうことへの危険性に言及すると同時に、私たちの人生は常に他者と共にあり、故に、小さな意思決定にも公共性が備わっていることを強調しました。

 

演題に設定した「大衆社会」とは、一般市民の意思が政治に大きな影響をもたらす社会のことです。それ自体は良いことなのかも知れませんが、裏を返せば、政治の方向性が民度に委ねられるということです。社会を捉える手段がメディア情報に偏ると、自分自身の判断基準が揺らぎます。そこで、自分の価値観に多大な影響を及ぼしている共同体、つまり、家族・地域・学校・職場といった組織の一員としての意思決定や振る舞いを考えることは、より「正しい」意思決定に近付く一つの方法であると考えています。

 

門外漢の私がこのようなテーマに挑んだ経緯は、祖母の逝去、子供の誕生という世代交代を目の当たりにしたことが多分にあります。戦禍で青春を過ごした祖母は、「たくさん勉強してほしい」という願いを私たちに残しました。私が生きている現代は、祖母が願った未来。そしてその願いを我が子へ引き継ぐのは私たちの世代の役目です。チェスタトンが唱えた「死者の民主主義」という思想のもと、生きている国民が選ぶ「正しさ」だけでなく、過去からの教訓という死者の視点からも「正しさ」を問う必要がある。そんな想いが込み上げた、初めての"母親目線"の演説でした。

 

唯一の心残りは、宮台真司審査員長が急遽ご欠席されたために、審査講評が割愛されたことです。この大会は、一人ひとりに審査講評がいただけるという特徴があり、部活のような繋がりのない社会人にとっては、特に貴重な機会です。簡潔な内容であっても、どなたか代わりの方がご講評下さったら、有意義な終わり方になったのではないかと感じました。そのような燻った気持ちがあったため、会場に足を運んでくださった方々からのご感想はとても嬉しかったです。

 

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「なぜ登壇するのか」

 

これは多くの弁士が自問する問いなのではないでしょうか。受賞を目標にする方もいれば、力試しに出られる方もいますし、登壇すること自体に意義を感じられる方もいます。そしておそらく、どの気持ちも全ての方に混在していて、その割合が微妙に異なる程度なのではないかと感じています。大会ごとに振り返ってはいますが、今回はとりわけ、この問いに向き合いました。

 

今回の演説における挑戦の一つは、「自己矛盾」です。大衆社会への警笛を鳴らすこの演説が"大衆受け"するものであったとしたら、それは、私が演説で述べた危険な風潮を後押しすることになる。最後の一言で何を述べるか直前まで迷っていましたが、今回、選ばなかった本当のメッセージは、「私の演説を疑うところから始めてください」でした。色々な大会に出ていると、”勝ち方”の導線が何となくできてしまいます。そこから外れるとどう評価されるのか。いつしかそんな興味も相まって臨むようになりました。

出場するからには、上位を目指して闘うことは礼儀であると思っています。一次審査、二次審査で競った全国の方々にも納得いただけるものをお見せするのが、決勝進出者の務めであるという思いがあるからです。これは、中学・高校時代に生徒会長をした経験が根底にあります。選ばれなかった友人、私に投票しなかった友人にも納得いただけるように努力する。代表するとはそういうことだと認識しています。

 

一方で、私自身のこだわりや持ち味は、絶対に捨ててはならないという思いも強くなりました。有難いことに、声質、言葉の選び方など、私が大切にしている要素を「好き」と言ってくださる方々の顔がたくさん浮かびます。それは、仮に大会で不利に働こうとも、貫いていきたいと思っています。「凛としているけど暖かい」そんな風におっしゃる方が一人や二人ではないということは、これが私の持ち味なのだろうと思っています。

 

私もこの世界ではすっかり年長組です。技術だけでなく、心持ちの面で、若手の皆様にとってお手本の一つとなることを願いながら、もう少し頑張ってみるつもりです。大学職員の視点から言えば、大会は、自己研鑽の場である以上に、教育現場なのです。

涼風と共に過ぎゆくシルバーウィークの折り返し。株式会社カエカの仲間たちと共に、ダイアログ・ミュージアム「対話の森」にて開催されている「ダイアログ・イン・サイレンス」に足を運びました。"ダイバーシティを体感するミュージアム"を謳う「対話の森」では、ハンディキャップを持つ人々の世界を様々な角度から体感できる場を提供し、私たちが考える「対話」の可能性を切り開いています。公式ウェブサイトには、以下のように説明されています。

 

”暗闇のエキスパートである視覚障害者に導かれ、見る以外の感覚を使って対話を楽しみ驚きの発見をしていく「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」。音のない世界で言葉の壁を越えた対話を楽しむ「ダイアログ・イン・サイレンス」。そして、歳を重ねることについて考え、世代を超えて、生き方について対話をする「ダイアログ・ウィズ・タイム」。ダイアログシリーズは、さまざまな環境での対話を通じて多様な価値観にふれることができるソーシャルエンターテイメントです。”

 

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シリーズ第2弾となる「ダイアログ・イン・サイレンス」は、聴覚障害を持つ方のアテンドによって、静寂の世界を体感する企画です。貴重品を含む全ての荷物をコインロッカーに預け、音を遮断するためにヘッドセットを装着し、音のない空間へと足を踏み入れます。約束事は、決して声や音を出さないこと。手話も言語のひとつということで、手話も使わないように、とのことでした。

 

 

内容の詳細は参加してのお楽しみとしますが、アテンダントの方の情緒豊かな働きかけに導かれ、参加者同士は表情や身振り手振りを駆使してコミュニケーションを図ります。「わからない」ということさえも、首を傾げたり目配せしたりしなければ伝わりません。感染症対策でマスクを着用しているため、特に目の動きが重要でした。

 

部屋ごとに用意された装置や小道具を使いながら、90分たっぷりと様々な「対話」を試みました。文字通り全身全霊で交わされるコミュニケーションは、普段以上に相手の表情を注視し、自分自身の表情にも工夫を凝らす必要がありました。街で交わされる些細なやりとりも、いざ発話のない状態で求められると、想像以上に伝わりにくいものであることを痛感しました。

 

しかし、印象に残ったのは不自由さではなく、"相手に寄り添う"という温かな姿勢でした。何を伝えようとしているのか想像を巡らす努力、どうすれば伝わりやすいかを考えながら表現を工夫する努力。受け取ることも発することも、思いやり無くしては成り立たないという当たり前に、はたと気づかされました。忙しさにかまけて、視線を逸らしたまま声だけで返事をしてしまった日常の場面は数知れず。ヘッドセットを外す頃には、物理的にも精神的にも耳が痛い思いでした。

 

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ロビーに戻ってからも、手話通訳の方を通じてアテンダントさんと交流したり、写真を撮ったりすることができます。「伝えたい」という情熱で目を輝かせながら語るアテンダントさんの姿はとても美しかったです。「いってらっしゃい」と送り出された音のある世界は、どこか懐かしく、どこか新鮮に映りました。

 

私が弁論で心がけていることの一つに、「目の不自由な方が心地よく聴ける声、耳の不自由な方が心地よく読める原稿」というモットーがあります。その域に達するにはまだまだ修行が必要ですが、そのモチベーションが今日ほど高まった日はありません。虫たちの声が宿す哀愁を今日のアテンダントさんに伝えるならば、私はどんな言葉を紡げるだろうか。そんなことを思う秋の夜長です。