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僕は初恋の相手と偶然にも再会を果たした。あのころも可愛かったけど、今ももちろん可愛いままだ。相変わらず小柄で、その割には大きな瞳。そして大人っぽくなっている。初恋の人が綺麗になっているというのはなんとも嬉しいものだ。

『自殺の危険性のある、まったく他人の少年を探す』という一見緊迫感があるようで、ちょっとシュールで非現実的な今の現状もあいまってか、僕は彼女に一気に惹かれていた。サカエは優しい子だ。一度しか言葉を交わしていない人のために、こんなにも一生懸命になるなんて。

一緒に探し始めてからサカエは少年を心配しているのか、少年を見失ってしまったことへの反省からなのか、常に何かを考え込み、真剣な表情をしている。笑ったらきっとすごく可愛いんだろうなと僕は思った。サカエの笑顔が見てみたい。それには早く少年を見つけないと。

それに偶然に偶然の上乗せで、僕が失くしてしまったハンカチをサカエが拾い、少年の足に巻いたというのだ。『ハンカチを追って』というあの夢のなかの言葉はこのことを暗示したお告げのようなものだったのかもしれない。


もうずいぶんと町中をあちこちと中学生の男子を探している。一度しか見ていないけど僕はきっと彼のことを覚えているはずだ。その姿を思い出してみる。靴を履いていないなんて気付かなかった。動体視力は良いはずなのに。

僕は学生生活の中で、それほどまでに酷いイジメなんて遭遇したことは無い。知らないところではあったのかもしれないけれど、少なくとも僕の目の届く範囲ではなかったはずだ。もちろんイジメなんてしたこともない。それはきっと幸運なことなんだろう。

 僕にはあの少年がどんな気持ちで、何を考え、死にたいとまで思ったのかは想像がつかない。むしろ容易に「その気持ちわかるわ~。」なんて彼も言って欲しくはないだろう。

 見つけ出すことが出来たら、僕は何て声をかけたらいいのだろうか。

もうすっかり日が落ちてしまった。商店街の付近を歩いていると若者向けの衣料品店が目に入った。

「靴下を買おうか。」

 僕はサカエに提案してみた。今日あの少年を見つけることが出来たら、僕はハンカチを返してもらわなくてはならない。きっとボロボロになって凄く汚れているだろう。

 靴を買ってあげる程の余裕は財布の中にはない。でも力だけはある。新しい靴下に履き替えてもらって、僕が背負って家まで送っていってあげればいい。そう言うとサカエは、そうね。とちょっとだけ目元を緩めた。

 僕達は手短に靴下を選んだ。オレンジや赤の派手目な色のボーダーの靴下。あえて明るい色にしてみる。

 それから、町の外れの方へ移動してみた。マンションが多く立ち並ぶ区域だ。

「もう手遅れになってるかもしれない。こんなに時間が経ってしまったもの。」

 ふと立ち止まりサカエが呟いた。きっと心も体も疲れてしまったのだろう。

「大丈夫。きっと見つかるよ。そうでなければ、多分自分の家に帰ったんだよ。」

 「そうかな。」

 「今日はね、僕にとってすごい偶然の日なんだよ。」そう今日は偶然が重なる日だ。きっと今日ならどんな偶然も起き得る。そんな気がした。

 「偶然の日?」

 「そう。もうなんだか説明しきれないけどね。とにかく偶然が積み重なって、今ここにいるんだよ。それにね、夢の中でお告げがあったんだ。」

 サカエは思いっきり訝しい顔をした。そりゃそうだろうと自分でも思う。

 「『ハンカチを追え』ってね。誰だかわかんない声に言われたんだよ。で、言われた通りにハンカチを追っている。そしてその傍らで色んな偶然が起きて、今に至る。」

 我ながら変な理屈だとは思う。だけどこれ以上の説明はできない。変な奴だと思われただろうか。サカエの表情を伺っていると、彼女は大きい目をさらに大きくした。

 「そういえば、私も言われたかも。」

 ん?サカエから意外な発言が出た。

 「夢の中でね、もちろん夢なのだけど誰だかわからない声で『誰かの命を助けたら・・・』」

 「カナエ!」

 サカエの言葉をさえぎるように誰かが彼女の名前を呼んだ。同時に声のする方を振り返ると、道路の少し先の方から背の高い、サカエと同じ高校の制服を着た女子が近づいてきた。早足で近づいてくる。「ユリカ。」とサカエが驚いた声を出した。

側まできた、おそらくサカエの友達であろう『ユリカ』は

「あんたね!どんだけ心配いたと思ってるの!こんなとこで何してんの!」

とまくし立てた。そして僕の方をじろりと正面から睨んで「あんただれ」と素早く言った。その勢いに僕はちょっとびびってしまった。

「友達よ。小学校のときの。」

サカエは俯いたまま言った。確かにそのとおり。実に明確な答えだった。

「なんで・・・。とりあえずこのことはいいわ。お説教は後にする。」

そしてユリカは意外なことを口にした。

「それより大変なの。私の弟が、こんなメールを送ってきて・・・。」

そう言って携帯の画面を僕らの方に向けた。そこには今日の偶然の真骨頂が記されていた。

『お姉ちゃん。ごめんなさい。せっかくお姉ちゃんが誕生日に買ってくれた新しいスニーカーとられちゃった。一緒に買ってくれた靴下もぼろぼろにしちゃった。僕はもういろんな人に迷惑かけて、いろんな人がすごく憎くてもう我慢できないです。お姉ちゃん、今までありがとう。』

読み終えて、僕とサカエは思わず顔を見合わせた。このサカエの友達の弟とは、きっとさっきから僕らが探していたあの少年だろう。それ以外には考えられない。なんて偶然なんだろう。サカエもそう思ったらしく、僕の目を見て無言でうなずいた。

「うちの弟、中学生なんだけど、イジメが原因でずっと引きこもってたの。最近ようやく登校できるようになって、そのお祝いもかねて靴と靴下をあげたの。だけどイジメは続いてたみたい。私があの子にプレッシャーをかけたんだ。」

 ユリカが悲痛な表情で声を荒げた。

「あの子ユリカの弟だったんだ・・・。」

「どういうこと?カナエ、ユウヤのこと知ってるの?」

ユリカは額にありったけの皺を寄せた。僕はこの会話に違和感を覚えた。この二人はさっきのユリカの態度からして、きっととても親しい間柄だと推測できる。学校の外でも交流はあるだろう。なのに、お互いの家に行き来をしていないのだろうか?家に遊びに行って、弟を一度も見かけないなんてことがあるだろうか。

不審がる僕をよそにサカエはこれまでの出来事を手短に説明していた。靴を履いていない少年を見かけたこと。遺書と思われる走り書きを見てしまったこと。気になって二人で探していたこと。簡潔明瞭な説明だった。

ユリカの表情がどんどん曇っていくのが判る。

「放課後にメールが来てから何度も電話したし、私も探してたんだけど、ユウヤの行く場所わかんないの。」

「よく遊んでいたとことか、お気に入りの場所とかどこか思い入れのありそうなところは知らないの?」

イジメが始まる前に遊んでいた場所や、思い出の場所などなにか手がかりがあるはずだ。しかしユリカは目に涙を溜めて首をただ横に振った。

「私とユウヤは小さいときに親が離婚して、今は一緒に暮らしてないの。会ったりすることはホント時々で、メールもたまにしかしない。」

そんな事情があったのか。情報がなければいくら姉とはいえども、僕らと同じくただ闇雲に探しまわるしかないだろう。しかもたった一人で。不安で、心配で仕方なかったろう。ユリカはもう今にも泣いてしまいそうだった。

「離婚する前に、みんなで暮らしていた家は?」

黙って聞いていたサカエが言った。ユリカははっとした顔をした。

「マンション。このすぐ近くにあるんだけど・・・」

「行ってみよう。」

僕は二人を促す。ユリカからマンションの名前と場所を聞き三人で走りだした。

そのマンションは本当にすぐ近くにあった。町でも1・2を争うほどの大きくて立派なマンションで、最上階まで見上げると首が痛くなりそうだ。ユリカの話によると、屋上にはドッグランなど、住人が憩えるスペースとして開放されているらしい。屋上に簡単に出られてしまうのかと思うと、今の状況を考えると不安になってしまった。

しかし僕達はマンションの前で立ち往生してしまった。マンションの内部に入るにはオートロックなので鍵が必要だ。もちろんユリカはもう住人ではないので鍵は持っていない。

「ユウヤも鍵を持っていないなら、中には入れないよね。」

「でも、誰かが開けたときに一緒に中に入ることは出来るでしょう?」

現実から目を背けたいユリカと、現実を見なくてはならないサカエ。僕はとにかく少年が心配だった。

ちょっとだけ沈黙が流れた。何か早急に手を考えなければならない。なぜだかユウヤ君がこの大きな建物の中にいるのだと、確信めいた何かを感じていた。皆で考え込んだ。その時、マンションの前に一台のタクシーが横付けされ、中から大きな買い物袋を抱えた女性が小さな男の子を連れて降りてきた。男の子は眠っているようで、お母さんの腕の中で肩に小さな顔を乗せていた。

すかさず僕は「運びましょうか。」と声をかけた。サカエも手を伸ばす。「すみません。ありがとうございます。」と女性は笑顔で頭を軽く下げ、子どもを抱えなおした。

そのまま僕達は荷物を持ち、女性の後をついてマンションへの侵入に成功した。

部屋の前まで運ぶのを手伝うと、また女性は頭を下げ、とても助かりました。と喜んでくれた。抱えられた男の子はずっと眠ったままだった。

僕達はすぐに屋上へとエレベーターで上がっていく。

不安そうにするユリカの手をサカエがそっと握った。

少年がいるかどうか判らないけど、とにかく心臓がドキドキした。ぼくもサカエの手を握りたかったけどもちろんそんなことはしなかった。

チーンとやけに明るめな音がして、エレベーターが目的地にたどり着いたことを知らせる。

エレベーターのドアが左右にゆっくりと開いた。夕闇の空気がエレベーターに入ってきた時、僕はニャーと猫の鳴き声を聞いた。





                   4








 運動神経は悪いわけではない。体力がないのだ。年齢の平均身長より大幅に小さい私はいつも学校行事で並ぶ時には一番前だった。体は小さく、貧相な体。ユリカはモデルみたいな体型なので並ぶと自然と上向き加減で話さなければならなかった。

 身長が伸びることは年齢的にも、遺伝子的にももうあきらめたので、体力をつけようと走りこんだりもしてみたけど結局は無駄に終わってしまった。

 でも、もうちょっと頑張っておけば良かった。隣を歩く長身の男の子を見上げてそう思った。

 「ちょっと休憩しようか。」

 声が頭上から降ってくる。ちょうど公園の横を通った時にシノダ君が言った。

 私達は公園の中に入り、ベンチに座った。ふーっとため息がでた。そんなに気温は高くないのに汗をかいている。ふくらはぎを軽くたたいているとシノダ君がペットボトルのお茶を差し出した。

 「ありがとう。シノダ君は疲れてないの?」

 「運動部だから。体力だけはあるから。」

 確かに、汗の一つもかいてはいない。何の部活なのだろう。

 「見つかるかな。」

 涼しげな顔をしてシノダ君がつぶやく。私は、うん。とだけ答えてお茶に口をつけた。

 私達は、さっき私がカフェで見かけた少年を探していた。もう日も暮れ始め、何時間も歩き回っているのでくたくただ。でも、探さないわけにはいかない。私の中の何かが焦り始めた。

 

少年は靴を履いていなかった。その不可解な状況に気付いた私はしばらく少年を気にしていた。彼はジュースを注文し、カバンからノートとペンケースを取り出しなにやら熱心にペンを走らせ始めた。

勉強でもしているのかと思ったけど、やっぱり足元が気になってしまう。誰も気付いていないのだろうか?靴を履いていないで外を歩くなんて状況は尋常ではない。それに今は平日の午後で普通に授業のある時間帯だ。中学生がこんなところでお茶しながら勉強するなんておかしい。

観察してみると、カバンや学生服がところどころ汚れているように見えた。これは少年がイジメに遭っているということを示唆しているのではないだろうか。きっと暴力を振るわれ、靴を取られ、必死の思いでここまで逃げてきたのではないかと思った。

店員が少年にオレンジジュースを運んできた。少年は一心不乱にペンを動かしている。店員がちょっと不思議な表情をした。振り返りざまに一度首をひねったようにも見えた。

何を書いているのだろう。どこか様子がおかしいのは火を見るよりも明らかだ。

声をかけたほうがいいだろうか。ちょっと逡巡している時だった。店員がお店の床の一部を見ながら奥にいたもう一人の店員を呼んだ。二人は小声でなにかサワサワと話しているが私の所までは聞こえない。目を凝らして私も二人と同じ所を見てみた。汚れだろうか。フローリングの茶色い床では判りにくいが、ちょっと赤茶けた汚れが見える。まさか血?   

少年の右足の白い靴下がちょっと赤黒く汚れていた。

自分のカバンの中をごそごそとかき回した。いつも絆創膏を入れてあるはずだ。でもいくらさがしてもいつもの場所に絆創膏がなかった。あまつさえポケットティッシュさえ入っていない。どうしよう。カバンの中を眺める。さっき拾ったハンカチが目に入った。

どこの誰のものか解らないし、ましてや拾った物だ。持ち主に返したいと思ったけど、きっとそんなことは無理だろう。

―考えていても仕方ない。

私はハンカチを握り締め、少年の席に近づいた。「ねぇ。」と軽く声をかける。少年の体がびくっと痙攣した。

「足。血が出てるよ。」

呆然とする少年の反応を待たずに、私はしゃがみこんで彼の右足に靴下の上からハンカチを巻き、甲のあたりでぎゅっときつめに縛った。

白い靴下は血や泥で汚れていた。エンジ色のハンカチがそれを覆い隠した。

「携帯電話貸そうか?」

 誰かに靴を持ってきてもらうなりするだろうと思い、そう言ったのだが

「いえ。大丈夫です。」

と少年は俯いてぼそっと小さな声を発した。

「なにか助けが必要?」

その問いにも「いえ。」とか細い声が返ってきただけだった。私は、そう。とだけ言って自分の席に戻った。どうしようかと思案する。でも放ってはおけない。

店員がまだ二人でボソボソと額をつき合わせてなにか相談していた。時折少年の方をちらちらと見ている。

その様子に気付いた少年が荷物を片付け始めた。私はまずいと思ったけど、どうしようか考えているうちに彼はジュース代をレジ前に置き、逃げ去るように店を出て行ってしまった。

ちょっとだけ躊躇した。でもやっぱり居ても立っても居られなくて後を追うように店を飛び出した。そこで偶然に小学校のころの同級生にばったり出会った。

すごく驚いた。全然変わってないなんて言ったけどあれは嘘だった。面影こそ残しているが身長がすごく大きくなっていて、格好良くなっていた。

私はドキドキした。少年を追いかけた時に走ったときの動悸か。まさか、一目ぼれに近い感情を持ってしまったときの動悸なんだろうか。

そんな動揺を押し殺して、私は咄嗟に彼を巻き込んでしまうことにした。



「ノートに書いてあったことって、本当なのかな。」

元気に遊ぶ子ども達の笑い声が公園いっぱいに広がっている。そんな場所とは打って変わって、シノダ君の声は心配そうだ。

「わかんない。けど、『死ぬ』とか『つらい』とか、あと『ごめんなさい』っていう文字が見えたのは確かだよ。あれは遺書だと思う。」

一瞬だけテーブルの上のノートを盗み見た。ノート一杯の文字の中に一際目立ったのはやはり「死」という文字だった。

「せっぱつまった様子だった。今日があの子の限界なら手遅れになる前に見つけたいの。」

そうは言ったけど、カフェの近辺や、制服から中学校を予測し、付近を捜したり川や橋なんか探してみたけど、むやみやたらに探したってそうそう見つかるものでもない。手がかりが何も無いのに、ただ一度会っただけの少年をこの広い町から探すのは至難の業だ。

もっとちゃんと話していれば。誰か迎えが来るまで、無理にでも一緒に居ればよかった。何度思い出しても私の行動は冷静さと常識を失っていた。

自分では、常に冷静沈着でいられる人間だと思っていた。なのに咄嗟の不測の事態には何もできない。いくら勉強ができたって、こういう時には何の役にも立たないのだ。

自分の不甲斐無さに、考えれば考えるほどどんどん落ち込んできてしまう。

シノダ君には悪いことをした。久しぶりに会った小学校の同級生にいきなり意味のわからないことに巻き込まれて、文句の一つも言わずにずっと付き合ってくれている。

―いいひとだな。

ちらりと横顔を盗み見る。

「そのハンカチさ。」

いきなりシノダ君が話し出したのでドキリとした。心の声が漏れてしまったのかと思った。

彼は公園で遊ぶ子ども達を見つめながら言った。

「僕が落としたハンカチかもしれない。」

「まさかそんなことあるわけないよ。生垣の上のほうに引っかかってたんだよ?落し物なら地面におちているでしょう。」

「でもね、きっと僕のだよ。ちょっと事情があって、高いとこから落としたから。落としたとき強い風も吹いていたし、僕がハンカチを落としたところからサカエが拾った場所はそう遠くない。坂の上と下だしね。」

そう言われると理に適っている気もするけど、そんな偶然あるだろうか。私はシノダ君の表情を読もうとした。横顔だからよくわからないけれど、こんな時に嘘や冗談を言う人ではないと思う。

「それにさっきサカエが言った、ハンカチの色とか和物っぽいとことか僕の母さんが染めたハンカチの特徴だし。やっぱり僕のだと思う。」

彼には彼なりの確信があるのだろう。そう断言した。

「それにね、『ハンカチを追え』って言われたんだよね。」

「『ハンカチを追え』?誰に?」

怪訝そうに聞くと、シノダ君はちょっと考え込む仕草をしてから、私の方に向き直り「わかんないけど。」とちょっと笑って言った。不思議と気持ちがちょっとだけ和んだ気がした。

「さぁ、少年とハンカチを探しに行こうか。」

私達は同時に立ち上がった。









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 「ハンカチを追って。」




 ハンカチ?おって?折って?いや、「追え」ってことか?

 目を開けた瞬間、痛いくらい眩しい青空が目に飛び込んできた。目の前には青空が堂々と広がっている。なんだ、今のは夢か。そうか、僕は落ちたんだ。

自分が木によじ登っている最中に猫に脅かされて落下したことを思い出すまでやや時間が必要だった。

 僕は木のそばにまさに大の字になって倒れていた。辺りは静かで車の喧騒が遠くのほうに聞こえている。嘘みたいな静けさ。

 体を起こして全身を確認してみる。目立った外傷や打撲などなさそうだ。痛いところもない。普段部活でそれなりに鍛えているからだろう。そのわりには木から落下するなんて。恥ずかしいから誰にも黙っておこうと僕は心に誓った。

 見回してみるともちろん黒猫はいなかった。代わりに僕のカバンの中身があちらこちらに散乱にていた。チャックが開いていたのか。はたまた弾みや衝撃で開いてしまったのか。

 僕はとりあえず大きめのため息をついて散らかったカバンの中身を拾い集めた。

 あんまりたくさんの物は持ち歩かないタイプだけど、授業の道具やらペンなんかを拾い集めているとこんなにカバンに物が入っていたのかとうんざりした。全部回収し、改めて確認してみる。

 無くなっているものは、無い。まぁ大丈夫だろう。無くなって困るものは全部あるし。それより僕は黒猫の豹変振りにちょっと心を痛めていた。あんなかわいい猫だったのに。僕が追いかけて木にまで登ってきたのが気に食わなかったのだろうか。きっとそうだろう。悪いことをした。

 ちょっとだけ反省をして僕はさっきの夢の中の言葉を思い出した。「ハンカチを追って。」という言葉。そういえば、カバンに入っていたはずのハンカチが見当たらない。

 僕はそもそもハンカチを自ら朝カバンに入れたりはしない。母さんが毎朝欠かさず勝手に入れるのだ。「出来る男子はハンカチくらい持っているものよ。」必ずそう言いながら入れる。

 僕は最初のうちこそ「いらないよ。」と言ってはいたのだけどもう堪忍して母のなすがままになった。母は少し前から染物にはまっていた。僕には何染めなのか判らないのだけれど、母は近所の教室に通い、ハンカチを始めTシャツやらネクタイやら布という布を染め上げた。キレイに染まったハンカチを選んで僕に持たせてくれているらしい。

 しかしいまだに「出来る男」っプリをハンカチによって発揮したことはない。まぁそんなことはどうでもいい、夢のなかの言葉も気になったけれど、なによりハンカチを無くすときっと母が悲しむと思って僕は辺りをもう一度探した。

 いくらか探したけれど結局ハンカチは見つからなかった。強い風が吹いたこともあり、きっと飛ばされてしまったのだろう。もうお昼をすぎてずいぶん経つ。お腹も空いてきたし僕は見切りをつけ何かかるく昼食でも食べようとその場を後にした。

 確かこの近くにカフェがあったはず。前に付き合っていた彼女に連れてこられたことを思い出した。坂の下にあるベーグルのお店。男子のみでは絶対に行くことの無いだろうおしゃれなお店だった。そういえばあんこの入ったベーグルが美味しかった。

 そんなことを考えながら歩いていると、前から走ってくる少年が見えた。こちらにぶつかってきそうな勢いだ。僕はすっと歩道の脇によけ彼を見送った。メガネに学生服の真面目そうな外見。こんな時間にこんなとこで学校サボって何してんだろう。ちょっと気になって少しの間その少年の背中を見ていた。今日はなんだかおかしな日だ。

店の前に立ち、やっぱり男子一人ではきついかなと躊躇している時だった。いきなりドアが勢いよく開いた。もう少しでぶつかるとこだったので「危ないっ」と声にだしてしまった。

勢いよく開いたドアから出てきた人は、はっとしたように辺りをキョロキョロと見回すと、ハァと短くため息をついてから僕のほうを向き「ごめんなさい。」とはっきりした口調で言った。

全体的に小柄な女の子だった。となりの高校の制服を着ているので高校生だと判ったけれど、きっと私服だったら中学生くらいに見えたかもしれない。バスケをやっていて平均よりも長身の僕からしたらまるで小人のように見えた。

その子はじっと僕の目を見ていた。僕はさっきの黒猫に見つめられたときのようにその子の大きな瞳から目が離せなくなっていた。

体の割には大きな瞳。小柄なので幼く見えるけど、目や口元からは大人っぽい凛とした雰囲気も感じられた。

じっと見ているとなんだか前にも感じたことのあるような奇妙な感覚になった。これがデジャ・ビュウだか既視感だかというやつだろうか。

「もしかしてシノダ君?」

「え?そうだけど、、、」

目の前の女の子がいきなり僕の名前を口にしたので驚いてうっかり肯定してしまった。知り合いだったろうか?となりの高校の女子に知り合いは数える程しかいないし、こんな可愛い子を忘れるわけないのに。

「やっぱり!久しぶり。小学五年の時以来だよね?背は大きくなったけど、顔は変わってないからすぐ判った。」

まさか。この子はサカエ?確かによく見るとあんま変わっていない気もする。さっきサカエのこと思い出していたばかりだったので、なんだか気恥ずかしい感じがした。

「まさか、サカエ?」

「そう!よく覚えてたね。一年間しか同じクラスじゃなかったのに。そのあだ名懐かしい。」

 サカエはちょっと頬を赤らめた。そういえばサカエと呼ばれていたのでそう記憶していたけど、本名は覚えていない。そう告げると、

「サカタ カナエだからサカエなの。」

と教えてくれた。僕は懐かしさと、初恋の人に会えたことでちょっとドキドキしていた。サカエが何か言いかけたときお店のドアが開いて

「あの、お客さん。お会計・・・」

とお店の店員さんらしき人がサカエに声をかけた。「あっ」と短く声をあげ、「すみません。」と言いながら店の中へ入っていこうとして、ふとサカエが振り返り

「シノダ君、中学生くらいの男の子見なかった?」

と言った。さっきの駆けていった少年のことだろうと思ったのでその話をしたら、方角を聞かれたので、坂の上の方を指した。すると、ちょっとここで待っていて。と言われた。  

僕は断る理由も無いので言われた通り待っていた。すぐにサカエがお店から出てきて、

「行こう。」

と僕を坂の上へ促したので着いていくことにした。なんだかよく解らなかったけれどサカエの表情は真剣で、一緒に行ったほうがいいような気がしたからだ。サカエは早足で歩き、僕は普通の歩幅で着いて行く。

「なにかあったの?」

と問いかけたら、サカエはハンカチの話をし始めた。