−−−−−「水底の写楽」−−−−−
第一章 渇水の夏
長く続く干ばつが、この地方を容赦なく焼き尽くしていた。夏の日差しは鋭く、まるで大地の命を吸い取るかのように照りつける。空の青は日に日に薄れ、霞んだ地平線はまるで世界の輪郭が溶けていくかのようだった。山間の道を走る理人の車のフロントガラス越しに、金原ダムの湖面が広がっていた。水位は例年の半分以下にまで落ち込み、干涸びた湖底からは、かつて水没した金原村の残骸が不気味に顔を覗かせる。崩れた石垣、朽ちた木材、かつての生活の痕跡が、まるで過去が水底から這い上がってくるかのように浮かんでいた。
理人はハンドルを握りながら、ダム湖の異様な光景に目を奪われた。金原村は十年前、ダム建設のために水没した。住民たちは新たな土地へと離散し、村の記憶は水の底に沈んだはずだった。計画当時は賛否両論が渦巻き、自然保護団体や地元住民の一部が猛反対していた。しかし、経済発展を優先する声が勝り、ダムは完成した。今となっては、誰もその選択に疑問を投げかける者はいなかった。少なくとも、表向きは。
理人は環境調査員としてこの地に派遣されて数日が経っていた。ダムの水位低下による生態系への影響を調べるのが彼の仕事だったが、湖底に現れた村の遺構に心を奪われていた。かつての家屋や神社、細い路地を思わせる石畳の跡。まるで時間が逆流したかのような光景だった。調査を進めるうち、彼はある古民家の裏手にある土蔵にたどり着いた。苔むした石壁に囲まれたその蔵は、半ば崩れかけ、湿った土の匂いが漂っていた。
蔵の奥、埃にまみれた木箱の中に、錆びついた鉄の金庫が隠されていた。鍵はなく、ダイヤルは長年の湿気で赤茶色に腐食していた。理人は慎重にダイヤルを回した。錆が擦れる音が不気味に響き、重い扉が軋みをあげて開いた。埃が舞い、薄暗い光の中に、ひとつの巻物が姿を現した。巻物を解くと、そこには一枚の絵が収められていた。
それは、東洲斎写楽の浮世絵だった。
薄暗い蔵の中で見たその絵は、役者の姿を描いていたが、どこか異様な迫力を持っていた。顔の輪郭に落ちる深い影は、まるで人間のものではないような不気味さがあった。役者の目はこちらをじっと見つめ、まるで生きているかのように息づいている。理人は息を呑んだ。
「こんな場所に、写楽の絵が……?」
第二章 封印された肖像
理人はその絵を手に、東京の古美術研究所に急いだ。研究所は、埃っぽい書庫と最新の分析機器が同居する、時代を跨いだような空間だった。そこで働く千鶴は、美術史の専門家であり、鋭い直感と深い知識で知られていた。彼女は理人が持ち込んだ絵を一目見るなり、目を細めた。
「これは……本当に写楽の作かもしれない」と千鶴は呟いた。彼女の手は慎重に絵を広げ、虫眼鏡で細部を観察する。顔料の質感、筆の運び、紙の劣化具合。すべてが18世紀後半の浮世絵の特徴と一致していた。しかし、彼女の表情には驚きと同時に不安が混じる。
「ただの浮世絵じゃないわ。どこか……異質なものを感じる」
千鶴の鑑定作業は数日に及び、絵の真贋を確定させるため、X線分析や顔料の化学組成検査まで行われた。結果、絵は本物の写楽である可能性が極めて高いと結論づけられた。しかし、千鶴が最も気になったのは、この絵が金原村の土蔵に隠されていたという事実だった。なぜ、こんな辺鄙な場所に、江戸時代の天才浮世絵師の作品が?
二人は金原村の歴史を調べ始めた。古い県の記録や地元の郷土史家の資料を漁り、村の古文書にまで手を伸ばした。すると、驚くべき事実が浮かび上がってきた。写楽が金原村を訪れ、そこで役者たちの肖像を描いたという記録があったのだ。しかし、その絵は村人によって厳重に封印され、決して外部に公開されることはなかった。古文書には、絵を封じた理由についての記述はなく、ただ「見ず、触れず、語らず」と繰り返されていた。
千鶴は古文書を閉じ、理人に言った。「この絵には、ただの美術品を超えた意味がある。金原村と写楽の間に、何か深い因縁があるのよ」
理人は絵をじっと見つめた。役者の顔に宿る不気味な影が、まるで彼に語りかけているようだった。
第三章 写楽の肖像
東洲斎写楽は、江戸時代の浮世絵師の中でも異端の存在だった。彼の作品は、役者の表情や仕草を極端なまでに誇張し、時に不気味なまでにリアルに描き出すことで知られている。しかし、その正体は謎に包まれ、わずか10か月で忽然と姿を消した。彼が何者だったのか、歌舞伎役者、僧侶、果ては隠密説まで、様々な憶測が飛び交っていた。
理人と千鶴の調査は、写楽の謎に新たな光を投じた。金原村の古文書には、写楽が村に滞在した際、特定の役者たちをモデルに絵を描いたと記されていた。だが、それらの絵は単なる肖像画ではなく、村に伝わる「写し見(うつしみ)」という言い伝えと結びついていた。
「写し見」とは、真の姿を映し出す鏡のような存在で、人の仮面を剥ぎ取り、本来の姿—時には恐ろしい本質—を露わにする力を持つとされていた。村の古老たちは、写楽がこの「写し見」の力を借りて、役者たちの「真の顔」を絵に封じ込めたと信じていた。もしそれが本当なら、この絵は単なる芸術作品ではなく、超自然的な力を秘めた「器」だった。
理人は古文書を読み進めながら、背筋に冷たいものを感じた。写楽の絵に描かれた役者の顔は、確かに人間のものとは思えない異様な迫力を持っていた。まるで、絵の中に何か別の存在が潜んでいるかのように。千鶴もまた、絵を前にして言葉を失っていた。
「この絵は、ただの肖像画じゃない。写楽は何か……人間を超えたものを封じ込めたのかもしれない」
第四章 写し見の社
理人と千鶴は、金原村の裏山にひっそりと佇む「写し見の社」を訪れた。かつて村人たちが霊験あらたかな場所として崇め、守り続けてきた神社だったが、今は苔に覆われ、朽ちた鳥居が傾いている。夏の熱気の中、森の静寂が重くのしかかり、まるで時間が止まったかのような空気が漂っていた。
社の境内には、苔むした石灯籠が並び、その一つに奇妙な符号が刻まれていた。千鶴はそれを指でなぞり、呟いた。「これは陰陽道の呪符に似ている……封印のためのものかもしれない」
二人は社の跡を慎重に調査し、土中に埋もれた古い巻物を見つけた。巻物には、写楽の絵を封じるための儀式の詳細が記されていた。そこには、祈祷師たちが絵に宿る「何か」を永遠に封じるために行った複雑な呪術の手順が書かれていた。絵は金庫に納められ、土蔵に隠され、さらにダムの水底に沈められることで、二重三重の封印が施されていたのだ。
理人は巻物を手に、社の周囲を見渡した。森の奥から吹く風が、まるで警告するように木々を揺らしていた。「この社は、ただの信仰の場じゃない。村人たちが命をかけて守ろうとした秘密の中心だったんだ」
千鶴は頷き、巻物の記述を読み上げた。「絵に封じられたものは、決してこの世に現れてはならない。それが解き放たれたとき、村は闇に飲まれる……」
第五章 封印の顔
調査を進める中、理人と千鶴の前に、土御門宗慶という男が現れた。彼は古美術史家であり、陰陽師の末裔を自称する謎めいた人物だった。宗慶は、薄暗い蔵の中で一冊の古びた巻物を開き、静かな声で語り始めた。
「写楽の絵には、ただの肖像画を超えた意味がある。この絵には、二重の“顔”が封じ込められている」
巻物には、江戸時代の陰陽道の符号が複雑に絡み合い、解読は容易ではなかった。宗慶は一つの文言を指さし、説明を続けた。「写楽は役者の仮面を剥ぎ取り、その奥に隠された“もう一つの顔”を見抜いた。それが、異形の存在だ」
理人はその言葉に息を呑んだ。絵の中の役者の顔は、確かに人間のものとは思えない不気味な影を持っていた。宗慶の目は鋭く、まるで絵の奥に潜む何かを見つめているようだった。
「村人たちはこの絵を金庫に封じ、外部に知られることを防いだ。ダムの建設もまた、この秘密を永遠に水底に沈めるための計画だった。だが、渇水がその封印を揺らがせている」
千鶴は震える声で言った。「つまり、写楽の絵は“封印の器”だったのね……封じられたものが解き放たれるのを防ぐための」
宗慶は巻物の最後の頁を指差し、冷たく告げた。「一度封じられた“顔”が再び現れる時、村は二度と平穏を取り戻せない。いや、この世界すらも」
第六章 記憶の水脈
渇水はさらに進み、ダム湖の底は干上がり、かつての村の全貌が露わになっていた。理人と千鶴は「写し見の社」の跡地に立ち、封印の核心に迫ろうとしていた。社の周囲には、かつての祈祷の場を示す石碑や、風化した木札が散らばっていた。そこから見つかった新たな巻物と古文書は、村人たちが何世代にもわたり守り続けてきた秘密を明らかにした。
古文書には、村に寄生し、人の顔を奪い、魂を蝕む「何か」が存在したと記されていた。その異形の存在は、村に災厄をもたらし、人々の心を狂わせた。写楽は村を訪れた際、その本質を見抜き、絵に封じることで村を救ったのだ。しかし、その代償として、絵は決して人目に触れてはならない「封印の器」となった。
理人は古文書を読みながら、村の記憶がまるで水脈のように地中深く流れているのを感じた。「この村は、ただの集落じゃなかった。異形と戦い、封じるための場所だったんだ」
千鶴は囁くように言った。「だから、村人たちは命をかけてこの秘密を守った。ダムの水底に沈めることで、永遠に忘れ去ろうとしたのね」
しかし、渇水は水底の記憶を再び呼び起こしていた。社の跡地に立つ理人の耳に、風が運ぶかすかな囁きが聞こえた気がした。それは、封印された存在の声なのか、それとも村の亡魂の叫びなのか。
第七章 揺らぐ封印
理人は写楽の絵を保管する金庫の前に立っていた。蔵の外からは、渇いた風が吹き込み、錆びた金庫の匂いが鼻をついた。絵は布に包まれていたが、その布越しにも、役者の顔がこちらを見ているような気がした。宗慶の言葉が脳裏に蘇る。
「封印が弱まっている。絵の中の“顔”が動き始めている」
理人は絵を手に取り、じっと見つめた。役者の目が一瞬、揺らいだように見えた。錯覚か、それとも本当に何か異様な力が動き始めているのか。宗慶は警告していた。「封印が破られたとき、異形は再びこの世に姿を現す。それを防ぐには、絵を再び封じなければならない」
だが、理人の心は揺れていた。村の秘密を暴くことは、未知の恐怖を呼び起こす危険を伴う。しかし、真実を知らずに放置することもまた、罪だった。彼は千鶴に目をやった。彼女もまた、絵を見つめながら、恐怖と好奇心の間で葛藤しているようだった。
「私たちは、この絵をどうするべきなの?」千鶴の声は小さく震えていた。
理人は深呼吸し、覚悟を決めた。「真実を知る。それが、村人たちが守り続けたものの答えを見つける唯一の道だ」
第八章 水底の肖像
ダム湖の水面は静かに揺れ、まるで鏡のように空を映していた。しかし、その水面に映る写楽の絵の輪郭は、どこか歪んで見えた。理人は湖畔に立ち、絵を手に持つ。絵の中の役者の顔は、まるで水底からこちらを見上げているようだった。
彼は気付いた。写楽の絵は単なる肖像画ではなく、時空の狭間に封じられた「存在」の証だった。それは、人の仮面を剥ぎ取り、真実を映す「写し見」の力を持った記憶の器だった。写楽とは、単なる浮世絵師ではなく、世界の「顔」を封じた者だったのかもしれない。
「この絵は、顔を持つものすべての記憶を水底に沈める肖像だ」理人はその言葉を胸に刻んだ。村の秘密は、ダムの水底に沈んだまま、封印は今も揺らぎ続けている。しかし、少なくとも今、この瞬間、異形はまだ目覚めていない。
エピローグ
写楽の正体も、金原村の深い闇も、完全に解き明かされることはなかった。理人は調査の記録をまとめ、こう書いた。
「歴史とは、封じられた“顔”の連なりである。金原村の肖像は、永遠に水底で眠り続けるだろう。だが、その眠りは決して安らかではない」
彼はダム湖を静かに見つめた。渇水の夏はいつか終わり、雨が再び湖を満たすだろう。しかし、水底に沈む秘密は、決して消えることはない。絵の中の役者の目は、今もどこかで彼を見ているのかもしれなかった。