モラトリアムの延命 -40ページ目

暇つぶしの充実した人生


ついこないだ久しぶりに、「あまり親しくない友人とのサシ飲み」にいってきた。


4年にもなってそんな機会があるなんてびっくりだが、久しぶりでわくわくしていたし、前々から話はあう気がしていた。


そして実際にあったら物凄く話が楽しく、ほんとに久々に味わう感覚だった。



自分の中で考え抜いて出た結論というものが、友人が考え抜いたすえに出たものと同じだと知った時の感動は凄い。



色々な所でやはり感覚が似ていると感じたが、何より「コミュニケーション力はただのツール。なのにそれがあることがステータスと考えてる人が嫌い」という考えが完全に一致したのが深い感動だった。



考え方なんかそれぞれだけど、間違ってないって言われた気になるよなー。



世の中を変えていく1%の凄い人は、変わっていて、真面目で、強い人

世の中を支える80%の立派な社会人は、まともで、ずるい人

世の中からさげすまれるダメな人は、変わっていて、真面目で、弱い人


そういうヒエラルキーである程度できている気がする。ヒエラルキーという言葉は嫌いなのだけど便宜的に使ってみる。


やはりぐるぐると頭をめぐる強さこそがいちばん必要なことなのだろう。



世の中の「まとも」なんかには、やっぱりうんざりしてしまうよ。

ようはマジョリティであることが全てじゃないか。くそくらえ。


とはいえ1%になれないのなら僕みたいな人間は静かにしているほうがよっぽど賢明なのです。


就活をとおして感じた不快感を幾分すかっとさせることできた。







芸術に対する評論というものがあまり好きではない。

別に評論自体はいいけど、それ自体が職業となることとかに、ん?ってなる。


僕は感性に乏しいのであまり偉そうなことは言えないのですが


芸術は


本当に人を揺さぶる 「感性」へ作用する要素と

それぞれに色々考えさせる「思考」へ作用する要素がからみあってできていると思う


だからこそ多くの人に受け入れられる作品っていうのは、深い思考を持たせるものが割合的に多いのではないかと思う。

そして、当然作り手に豊かなバックグラウンドがあるからこそ、そうした深い思考への作用が生まれるんだろう。


だからこそ、評論なんてのは、その受け取り手固有の解釈であって、それに意義があるなんてのはなんだかよくわからない。


「作者がこの社会問題を暗にこの表現に記している」なんて、そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。もっといえばそんなのどうでもいい。

あたりまえのことを響かせられるだけでいい。

大人は、あまりこねくりまわすな。




自分はやはりこれくらい多少もやもやしているほうが個性は出るのかな。思考に。


書き出してこ。

人生なんて 人生でしかない


僕は色々と考える。


色々、色々と考えているのだけど、実はほとんどがどうでもいいことだったりする。



どうでもいいことほど、どうでもよくないと思っているのだ。


人間を決めるのはそちらだと思っているのだ。




だからこそバンドが好きです。



就職活動を振り返って思うのは、まあ自分の甘さ。


で、それは正直まあいいやと思ってるんだが、後は価値観のギャップ。


どうでもいいことは、やはりどうでもいいという世の中の流れを強く感じた。



それは別に世の中が悪いとも言わないし、自分が悪いとも思わない。


けれど、一般に世の中は正しいし、僕は合わせられないのである。



それはもう器用さを身につけることしかできないのではないか。そのような感覚。



まあなんだっていいのだけれど、働くことに苦手意識はとても強いのです。結局。



バンドを好きでいる気持ちは、忘れたくないなあ。

あきらめないでどんなときも


今日は第一志望の面接にいき、おそらく失敗して帰ってきた。

こちらの熱意が伝わらなかったのが問題だった。

伝わらない理由はいくつかあるのだが、悔やまれるのが伝え方がダメダメなだけで思いはあった所である。


ああしていれば、だとかそうした失敗を繰り返し人は成長するのだろうけど

こうして分析してそれを次に活かすことが大事なのだろうけども

そもそも初めから失敗しないためには何をすればいい?ということも大事だよなあ。


多分考えられる問題としては

伝え方が下手で、真剣味を伝えられなかったこと。

下手にスラスラしゃべれるだけに、緊張してるように見えず可愛げがないこと。

というのが問題だったのだろうと今となっては考える。


前半に関してはその後に謝って自分の気持ちをなんとか伝えることをしなかった(パニックになっちゃって)のも悪い。あかんなあと思った。深堀りされる前に怒られたのはよくわからないけども。

後半に関しては本当にあまり意図していなかったので面喰った。
僕の中では緊張しているし、しゃべりだってあまり上手に出来てはいないのに、どうしたってそうは思ってもらえない。

このギャップは本当につらい。可愛げのない学生に見えてしまうのである。


とめどなく喋ってしまうことと顔がふてぶてしい、それをわかった上で自分の見せ方を考えるべき。


PDCAサイクルは本当に重要だと感じたし、それができない限り自分は一流になれないのだとインターンでも思った。

結局、ある程度それでもどうにかなってきちゃったから、とか、色々甘えなり逃げの理由はあるけど。

気づいたらやらなければいけないし、活かさなければならないのである。

何故こんなことを書いているかというと、さすがに今日の面接があかんかったのはとても辛いのである。


でもこうやって書き出して反省させて自分を次に進ませないと意味がなくて、それで吐き出して、言い聞かせて。

続けるしかないのです。残り数少なすぎて引いたけど。





僕の優しさは完全に僕が感謝されたいというエゴイズムの元に成立しているわけで。

そんな不純な動機の優しさなんか優しさじゃない!なんて青臭いことはさすがに高校時代しか思っていないけども。

誰かに何かをすることで感謝されて
それはきっと気持ちのいいことで
必要とされることに安心を覚えるし、物凄くしっと深いから
必要性を感じられなくなるとなんとも言えない気持ちになる。

そしてそれを出すのも怖いから
基本的にはあまりどうってことない顔をしているのだ。


伝え方に失敗した理由の一つにネガティブさもあるんだろう。




でも考えてみた時に、僕の好きな人たちというのは
どうしたってあまり世の中に合わない人達が多いのである。

世の中を知っている人、全然その中でやっていける人であっても
最重要の価値観を非日常に置いている人が、僕の好きな人達。

僕は繊細な優しさも非日常だと思っているので、そういう意味で優しい人が多いです。
あとネクラ

しかしネクラ同士で集まって、でも相手はネクラになるべきでないほど本当に素敵な人だとお互いに思えているのに、それを伝えて、伝わるとお互い嬉しいっていうのを繰り返しているのに
なおネクラなのはもうほんとにネクラなんだろうね。ネクラマスター。


全ては強い人になれない自分がダメなんてことは、わかっているけどね。

わかっているを、やるに移すことが何より難しい。


いや、やれよって話ですよねw PDCAサイクル。サイクル。


結局僕には学習スタイルというものが身についていないのです。ポテンシャル頼みで甘えてきたから。



僕の尊敬する大好きな友人たちを励ました時に、僕が言うことで勇気づいてもらえるような人でありたいと思う。

だから自分のアウトプットを高めたい。そうじゃないと説得力がないから。


独りは嫌いです。おやすみなさい。