【人間爆弾桜花で米駆逐艦を粉砕した男】土肥三郎【ずんだもん ゆっくり解説】 | 覚書き

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桜花

(おうか、旧字体:櫻花󠄁[2])は、日本海軍が太平洋戦争中に開発した特殊滑空機。特攻兵器として開発され、実戦に投入された。

 

 

 

回天

(かいてん)は、太平洋戦争で大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり[1]、日本軍初の特攻兵器である[2]。

 

 

 

伏龍

(ふくりゅう)は、第二次世界大戦末期の大日本帝国海軍による特攻兵器。「人間機雷」とも呼ばれる。潜水具を着用した兵士が浅い海底に立って待ち構え、棒付き機雷を敵の上陸用舟艇に接触させ爆破するという特攻戦法のことである[1]。

 

 

 

震洋

(しんよう)は、太平洋戦争で日本海軍が開発・使用した特攻兵器(小型特攻ボート)[1]。構造が簡単で、大量生産された[1]。英語では、Suicide Boat[2][3]あるいは、Kami Kazi boat[4] または Shinyo suicide motorboat と呼ばれた。

 

 

 

2023.07.07
人命無視の非人道的兵器「人間爆弾」桜花をつくった男が、生きながら「死人」となったワケ
神立 尚紀 プロフィール
搭乗員の最後の言葉
海底で発見された「マナート・L・エベール」の艦体は真っ二つに裂け、桜花の爆発のすさまじさを物語っている。この駆逐艦に突入した桜花の搭乗員は、桜花部隊である第七二一海軍航空隊(神雷部隊)の、大阪第二師範学校(現・大阪教育大学)出身の学徒士官・土肥三郎中尉と推定されている。

桜花を胴体の下に懸吊し、出撃態勢の神雷部隊の一式陸攻
戦時中、1945年(昭和20)5月30日の毎日新聞に、〈親機からシュッ ロケットの翼敵艦へ〉と題し、土肥中尉機発進のさいの様子が記されている。以下、新漢字、現代仮名遣いに直して引用しよう。

〈四月十二日、神雷(じんらい)攻撃隊(注:桜花部隊のこと。新聞では終戦まで桜花を「神雷」と呼んだ)三度目の出撃である。(中略)三浦少尉(岩手)機に乗込んだ土肥中尉は発進直後同期の親しさから『オイ三浦、貴様御苦労だが敵艦の真上までもって行ってくれよ』と三浦少尉に頼んでからグッスリ睡り込んでしまった、戦場到着予定時刻三十分前三浦少尉にドンと肩を叩かれて目を覚ました土肥中尉は『どーりゃ行こうかな』と救命胴着を脱ぎ、万一不時着した時の自決用に持ってきた拳銃も残して神雷機に半身入れながら『願います』『いや願います』と二人はせまい機上で額の真中に右手を挙げ、こう言葉を交わしただけだった。本島北端西方〇〇海里付近で那覇沖から北上して来たらしい戦艦一、その他十数隻の一群を認めた。三浦少尉は約束通り敵対空砲火の真っ只中を衝いて戦艦の真上までもって行った。「神雷進発」瞬間(ロケットを噴く)土肥中尉機をチラッと見て急旋回で敵砲火を避けた。ピカピカッと海面に光るものがあった。再び機首をかえした時には既に敵戦艦の影も形もなかった(後略)〉

桜花を抱いて発進する神雷部隊の一式陸攻
母機の一式陸攻機長・三浦北太郎少尉が「戦艦」と判断した敵艦は、じつは戦艦よりはるかに小さい駆逐艦だった。対空砲火を浴びながら、高度数千メートルからの敵艦識別はむずかしく、日米ともにこういう誤認はめずらしくない。ともあれ、土肥中尉機が命中した敵艦は、瞬時に沈没した。この艦が「マナート・L・エベール」とされる。

 

「桜花」発案者の驚きの生涯
桜花の出撃は1945年3月21日から6月22日まで計10回に及び、米側記録との照合で、駆逐艦1隻を撃沈、6隻に損傷を与えたことが判明しているが、七二一空は、桜花搭乗員55名を含む715名もの特攻戦死者を出した。地上の整備員や、事故によるものなど特攻以外の戦死、殉職者114名を合わせれば、神雷部隊の戦没者は829名に達する。4月12日に生還し、土肥中尉機発進の模様を毎日新聞記者に語った三浦少尉も、中尉に進級後の同年6月22日、最後の桜花隊出撃のさいに戦死した。沖縄に上陸後、未使用の桜花を手に入れた米軍は、この兵器に「BAKA」あるいは「BAKA Bomb(バカボン=馬鹿爆弾)と名づけた。

鹵獲した桜花をもとに、ワシントンD.C.のアナコスティア海軍航空基地が作成した透視図。桜花は米軍から「BAKA」あるいは「BAKA Bomb(バカボン=馬鹿爆弾)とよばれた
この非情な兵器「桜花」を発案したとされるのは、ベテランの陸上攻撃機偵察員(偵察、航法などを担当する)だった大田正一少尉(終戦時中尉)である。大田は「私が乗って行きます」と言って海軍上層部を説き伏せ、桜花の開発にゴーサインを出させたという。だが大田は、最後まで桜花で出撃することなく、終戦直後の昭和20年8月18日、零式練習戦闘機を操縦して茨城県の神之池基地を飛び立ち、姿を消した。海軍は大田を「公務殉職」と認定し、その存在を抹消した。

人間爆弾「桜花」の発案者とされる大田正一。昭和19年12月、連合艦隊司令長官豊田副武大将が神之池基地を視察した際の集合写真より
しかし大田は生きていた。「死人」となって戸籍も失った大田は、「横山道雄」の偽名で各地を転々としつつ、1950年(昭和25)、大阪に流れつく。そこで出会った女性と結婚(戸籍がないので事実婚)、3人の男の子をもうけ、戦後49年となる1994年(平成6)、82歳で病没した。

 

非エリートの一士官がなぜ海軍を動かせたのか
筆者はこのほど、9年がかりで大田正一の足跡を追い、家族や関係者への取材を重ね、一次資料を可能な限り渉猟して、『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』(小学館・6月30日発売)というノンフィクションを上梓した。名を変え、戸籍も失い、戦後築いた家族にさえ正体を隠し続けて生きた男と、ある日突然、父の名が偽名で戸籍もないこと、自分がそれまで名乗ってきた「横山」という姓まで架空のものであったことを知らされた息子を軸とした物語である。しかも父は、ほかにもいくつもの秘密を抱えていた。――そこから先は本書をお読みいただきたいが、大田正一について、押さえておきたいポイントがいくつかある。

まず、大田は海軍兵学校出身のエリート将校ではなく、一兵卒から叩き上げたノンキャリアの「特務士官」、すなわち、戦場経験は豊富だが「海軍」という組織のなかでは傍流にすぎないこと。つまり、その意見が海軍を動かすようなことは通常ならあり得ない。次に、大田が桜花の試案をもって航空本部に赴くよりも1年近く前から、航空機による体当たり攻撃(=特攻)の案はあちこちから出ていたこと。さらに、人間魚雷(回天)、爆薬付きモーターボート(震洋)などの開発はすでに始まっていて、「特攻」は海軍の既定路線になっていたこと。つまり、「人間爆弾」についても、いつ誰が提案し、誰が開発の引き金を引くか、というタイミングだったのだ。

昭和19年11月20日頃、神之池基地を視察した永野修身元帥と神雷部隊の隊員たち。前列中央が永野元帥、その右・岡村基春司令、2列め左から4人めが大田正一
特攻兵器の採用を決定する軍令部や海軍省といった「上層部」の官僚軍人にしても、開発する技術者にしても、そのほとんどは戦場にすら出たことがない。そんなところへ、「歴戦の搭乗員」である大田が、「人間爆弾」の構想をもって現れたことは、上層部にとって渡りに舟だった。非人道的な兵器の開発を、「上から命じる」のではなく、「現場の搭乗員からの提案を受け、その熱意に打たれて、やむを得ず採用する」という流れになれば、上層部の責任を軽くするエクスキューズになるからだ。

 

「いまさらわしがほんとうのことは言えんのや」
大田が持ち込んだ「人間爆弾」は、発案者大田の名をとりマル大(〇のなかに大)と名づけられ、開発はトントン拍子に進んだ。そして早々に、大田正一という一介のノンキャリアの手を離れて海軍全体の大方針となった。同年8月5日、軍令部で航空特攻を推進していた源田実中佐が軍令部会議でその構想を発表、8月16日には開発の概要が決まり、10月1日には、桜花による特攻部隊として第七二一海軍航空隊(神雷部隊)が編成された。

問題は、桜花の航続距離の短さと、総重量2トンを超える桜花を懸吊して敵艦隊上空まで運ぶ母機の一式陸攻のスピードの遅さである。1945年3月21日、桜花隊は初めて敵機動部隊攻撃に出撃したが、待ち構えていた米軍戦闘機に全機が撃墜され、攻撃は失敗に終わった。そして以後も、今回海底で発見された「マナート・L・エベール」を撃沈、ほか数隻に損傷を与えたものの、戦況を挽回するにはほど遠く、海軍が期待したような戦果を挙げることはできなかった。

昭和20年3月21日、米軍戦闘機のガンカメラがとらえた神雷部隊の一式陸攻。胴体の下に桜花が見える。この日、出撃した18機は全機が撃墜され、攻撃は失敗に終わった
大田正一は、自ら桜花で出撃することなく終戦を迎えた。操縦員ではなく偵察員の大田が、桜花の搭乗員に選ばれなかったのはある意味当然だろう。だが、命令ひとつで母機の一式陸攻の機長として出撃させることはたやすくできたはずである。海軍がそれをしなかった、すなわち大田を死なせなかったのはなぜか。……ということも、終戦直後に「死人」とされた大田が、名を変え戸籍を失ったまま、幽霊のように生きなければならなかった理由を考える手掛かりにはなるだろう。

桜花の発案者とされる大田正一は戦後、死亡したこととされ無戸籍のまま偽名で生きた。写真は1959年頃、就職のために撮影された「横山道雄」こと大田の姿
1994年、大田が病に冒され、余命いくばくもなくなった頃、息子の隆司にこんな言葉を残している。

「いまさらわしがほんとうのことは言えんのや。国の上のほうで困るやつがおるからな‥‥‥」

『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』(神立尚紀・著/小学館)

 

 

 

・マナート・L・エベール(USS Mannert L. Abele, DD-733)は、アメリカ海軍の駆逐艦。アレン・M・サムナー級駆逐艦の30番艦。艦名は潜水艦グラニオン(USS Grunion, SS-216)の艦長として、戦死後に海軍殊勲章を受章した、マナート・L・エベール少佐に因む。

艦歴
メイン州バスのバス鉄工所で1943年12月9日に起工。1944年4月23日にマナート・L・エベール夫人によって命名、進水し、1944年7月4日にマサチューセッツ州ボストンでアルトン・E・パーカー艦長の指揮下、就役した。

バーミューダでの整調後にマナート・L・エベールはチェサピーク湾で乗組員の訓練を行い、10月16日に太平洋での任務のためノーフォークを出航する。サンディエゴ経由で真珠湾に11月17日到着し、2週間の集中的な訓練を行う。12月3日に船団警護で西太平洋に向かうが、2週間後に帰還し戦闘機指揮艦へ転換される。硫黄島進攻作戦に向けて特別の無線・レーダー装置を搭載し、レーダー監視訓練を行った後1945年1月27日に出航した。

リッチモンド・K・ターナー中将の第51任務部隊で船団護衛の任務を与えられたマナート・L・エベールは、2月19日に出航しエニウェトク、サイパン経由で上陸部隊の船団を警護した。翌日には火力支援グループに加わり艦砲射撃を行った。続く28時間の間の砲撃で数多くの日本の野砲陣地、トーチカ、その他の施設を破壊する。その後は第5海兵大隊の上陸支援のため夜間照明および攪乱射撃を行った。2月21日には船団護衛およびレーダー監視任務を再開する。

3月3日から4日および3月8日から10日までマナート・L・エベールは海兵隊の地上作戦支援のため艦砲射撃を行い、3月10日にはウルシー泊地に向かい、12日に到着した。

その後マナート・L・エベールは3月20日にウルシー泊地を出航しレーダー監視任務を行い、翌日には沖縄進攻作戦参加のためモートン・デヨ中将率いる第54任務部隊に加わる。部隊は3月24日に琉球列島に到着、翌週には沖縄本島攻撃前の慶良間列島へ艦砲射撃を行い進攻部隊への支援を行う。加えて上陸前の潜水作戦支援のため日本に対する砲撃も行った。

アメリカ軍は4月1日に海岸への攻撃を開始し、マナート・L・エベールは火力支援を行った後その日遅くに沖縄北東でレーダー監視任務に従事する。4月3日に3機の日本軍機の攻撃を受けるが、そのうち2機を砲撃により撃破する。4月5日にレーダー監視任務を離れ、沖合で船団警護を再開する。6日には双発爆撃機を他の艦と協力して撃墜した。

翌日、マナート・L・エベールは第54任務部隊に合流し、日本海軍の戦艦大和を含む水上特攻部隊から輸送船団を護衛する任務に就く。

マナート・L・エベールはレーダー監視任務を4月8日に再開し、沖縄北西約70マイルの偵察ステーション14番を揚陸艦2隻と共に偵察した。4月12日の午後、偵察の途中に日本軍の攻撃を受ける。13:45に3機の特攻機が突入し、2機を砲撃により撃破したが、攻撃をすり抜けた3機目が揚陸艦への攻撃を試み失敗した。14:00には15機から25機の敵機が飛来し、砲撃によって破壊された1機の軽爆撃機を除いて、日本軍機は30分以上マナート・L・エベールの射程外を飛行した。

14:40頃に3機の零式艦上戦闘機が攻撃のために近づき、マナート・L・エベールは1機を撃破、もう1機も約4,000ヤードの距離で撃墜した。5インチ砲による激烈な対空砲火にもかかわらず、3機目が艦の右舷に突入し、機関室後方で爆発した。マナート・L・エベールはたちまち推進力を失い停止した。爆風が機関室後方を吹き飛ばし、二番砲塔後方の竜骨も損傷した。ブリッジは艦の制御を失い、5インチ砲も使用不能となった。続いて、桜花を搭載した3機の一式陸上攻撃機が接近し、うち1機が桜花を分離した。桜花は時速800km以上で接近。マナート・L・エベールは右舷後方から接近する桜花に対して40mmと20mm機銃で応戦したが、鹿屋基地から発進した桜花(操縦者:土肥三郎中尉)により14:46頃、右舷の喫水線付近の弾薬庫前方に突入され、爆発した。

マナート・L・エベールは、すべての動力、照明および通信が切断されたのみならず、中央区画が吹き飛び、船体が真っ二つに折れて、船首および船尾部分は3分間で沈没した。艦の沈没水域には生存者が浮かんでおり、随行していた揚陸艦 LSMR-189 および LSMR-190 が残っていた日本軍機2機を撃墜し、生存者を救出した。パーカー艦長は後に「彼ら(揚陸艦の乗組員)の価値は金のように重かった」と賞賛した。

マナート・L・エベールは沖縄戦において桜花によって撃沈された唯一の艦であり、桜花によって攻撃された3隻のレーダー監視艦のうちの最初の艦であった。日本軍の奮戦にもかかわらず、レーダー監視艦は彼らの任務を成功の内に終えた。レーダー監視部隊の指揮官であるフレデリック・ムースブラッガー大佐は、部隊の危険な任務を、「...我々海軍の伝統における最高の業績のシンボルである」と賞賛した。

マナート・L・エベールは、第二次世界大戦の戦功での2つの従軍星章を受章した。

2023年5月26日、海軍歴史遺産司令部の水中考古学部門は、沖縄本島北方沖の水深1300mでマナート・L・エベールを発見したと発表した[1][2]。

脚注
^ Shipwreck identified as World War II Destroyer USS Mannert L. Abele (DD-733)│HeritageDaily - Archaeology News“ArchaeologyNews”. 2023年5月29日閲覧。
^ “船体は真っ二つ… アメリカ軍駆逐艦みつかる 特攻専用機「桜花」が撃沈 時は沖縄戦”. 乗りものニュース. (2023年6月10日) 2023年6月10日閲覧。
外部リンク
history.navy.mil: USS Mannert L. Abele - ウェイバックマシン(2004年3月14日アーカイブ分)
navsource.org: USS Mannert L. Abele
hazegray.org: USS Mannert L. Abele