【パラオを救い最強部隊を壊滅させた南洋の侍】中川州男【ずんだもん ゆっくり解説】 | 覚書き

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・ペリリューの戦い

 

 

(ペリリューのたたかい、英: Battle of Peleliu)は、大東亜戦争中の1944年(昭和19年)9月15日から11月27日にかけペリリュー島(現在のパラオ共和国)で行われた、日本軍守備隊とアメリカ軍の陸上戦闘である。アメリカ側の作戦名はステールメイトII作戦(Operation Stalemate II)[注釈 1]。

アメリカ軍の当初の計画では島を4日で攻略する予定であったが、最終的に2ヶ月半を要することとなり、アメリカ軍の作戦計画を大きく狂わせることとなった。 要塞化した洞窟陣地などを利用した日本軍の組織的なゲリラ戦法にアメリカ軍を苦しめ、後の硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになる。

背景
日本側の事情

歩兵第2連隊連隊長中川州男大佐
パラオは第一次世界大戦後に国際連盟による日本の委任統治領となり、1922年南洋庁がコロール島に設置されて内南洋の行政の中心となっていた。

日本人はパラオに米食の習慣を定着させ、なすやきゅうりなど野菜やサトウキビ、パイナップルなどの農業を持ち込み、マグロの缶詰やカツオ節などの工場を作って雇用を創出した。道路を舗装し、島々を結ぶ橋をかけ、電気を通し、電話を引いた。南洋興発などの企業が進出し、水産業、リン鉱石採掘業と小規模なパイナップル農業が企業化されていて、1943年にはパラオ在住者は33,000人おり、その内の7割は日本本土、沖縄、日本が統治する朝鮮や台湾などから移り住んできた人達であった。

国際連盟規約に基づく委任統治領の軍備制限により、パラオへ要塞など軍事的な根拠地を構築することは禁止されて、パラオ本島(バベルダオブ島)に民生用として小規模な飛行場があるだけだったが、日本の国際連盟脱退後はパラオは重要な軍事拠点のひとつとして整備が進められた。1937年にパラオ本島飛行場の拡張とペリリュー島に飛行場の新規建設が開始され、1941年太平洋戦争開戦時のペリリュー島には1200m滑走路2本が交差して上空からは誘導路含め 4 の字に見える飛行場が完成していた。

そしてペリリュー島の300m北隣のカドブス島にも滑走路1本が造られ、両島の間には長い桟橋が伸びていて橋として渡ることができた(戦闘の破壊から免れたコンクリート製橋脚の一部が2010年現在でも遺されている)。1943年9月30日絶対国防圏の設定、10月11日付「作戦航空基地ニ関スル陸海軍中央協定」により、防衛体制の整備が進められていった。

内南洋での日本海軍根拠地に対してアメリカ機動部隊は、1944年2月17日にトラックを、同年3月30日にはパラオを空襲し、その機能を喪失させた。トラックが空襲を受ける1週間前に連合艦隊主力はパラオへ向け移動していたため無事だったが、パラオも空襲されたことで、3月31日古賀峯一連合艦隊司令長官は連合艦隊司令部をミンダナオ島ダバオへ移そうとして海軍乙事件が起きてしまう。

中部太平洋のアメリカ軍侵攻ルートを地図上にたどれば、タラワ、マーシャル、トラックとほぼ一直線に並んでおり、その先にはパラオがあった。大本営はその状況から、アメリカ軍はパラオ経由でフィリピンに向かうものと判断し、西カロリン、西部ニューギニア、フィリピン南部を結んだ三角地帯の防備を強化して、アメリカ軍へ反撃を加える構想を練り上げた。

それまで大艦巨砲主義に基づく決戦論者である古賀司令長官の連合艦隊では新Z号作戦を策定しており、マリアナ諸島〜西カロリン〜西部ニューギニアに邀撃帯を設けて、ニミッツ軍とマッカーサー軍の二方面で進攻してくるアメリカ軍を迎え撃とうとしていた。しかし海軍乙事件での連合艦隊司令部壊滅により、二方向の予想アメリカ軍進攻ルートは合流してフィリピンに向かうものという一方的な想定と、帯よりも三角地帯で迎撃する方が艦隊決戦を行うには都合が良いという主観的判断で、作戦構想が見直されて軍令部が中心となって「あ号」作戦として決戦構想がつくられた[10]。その三角地帯の内側にパラオはあり、グアムやサイパンの後方支援基地としても、パラオは当時の日本軍にとって戦略的価値が急浮上していた。


ペリリュー島西岸を視察中の歩兵第15連隊本部、同連隊の1部の部隊がペリリュー島の守備についている
日本陸軍は絶対国防圏を守るため、中部太平洋方面防衛の第31軍の作戦地域にパラオを含め、関東軍最強と呼ばれてマリアナ諸島への配備を予定していた第14師団(照兵団)を1944年4月に東松5号船団によってパラオへ派遣した。

詳細は「松輸送#東松5号船団」を参照
第14師団麾下の水戸歩兵第2連隊が中核となってペリリュー島の守備に当たらせ、パラオ本島とマラカル島には状況に応じて機動的に運用できる予備兵力として高崎歩兵第15連隊を基幹とした兵力を配置した。彼らは大本営よりアメリカ軍の戦法についての情報伝達を受け、水際の環礁内の浅瀬に乱杭を打ち、上陸用舟艇の通路となりそうな水際には敵が上陸する寸前に敷設できるよう機雷を配備するとともに兵士を訓練し、またサンゴ礁で出来たコンクリート並に硬い地質に存在する500以上におよぶといわれる洞窟には縦横に坑道を掘り要塞化するなど、持久戦に備えた強固な陣地を築きアメリカ軍の上陸に備えた。アメリカ軍がマリアナへ侵攻すると、ペリリューには更に第14師団戦車隊ならび歩兵第15連隊の1個大隊(第3大隊)が増援された。

ペリリューの戦いにおける日本軍の戦闘方針は、情報参謀堀栄三が作成した『敵軍戦法早わかり』の内容を元に計画されたものであるという(昭和19年3月、第14師団に対し大連にて、米軍の戦法その他について堀から直接説明の場が設けられた。中川州男大佐はこの場で熱心にメモを取り、時にはみずから質問していたという)[11]。また、大本営はサイパン島から報告された戦訓を元に、1944年7月20日に戦訓特報第28号を発行し全軍に通知したが[12]、ペリリュー島の陣地構築にはこの通知も参考にされている[13]。

砲爆撃対策と対戦車戦闘は対米戦の運命を決する二大項目である
戦車には砲撃と肉弾戦が有利 
縦深陣地は絶対に必要、複郭陣地も準備必要
熾烈な砲爆撃特に艦砲射撃に対し、築城により兵力・資材をなるべく貯存して、敵に近迫して白兵戦に持ち込む訓練を行う
砲爆撃により、幹部の死傷者が増え指揮組織が崩壊した時に対する事前対策、特に中隊長級指揮官の統率力の強化
戦況が切迫してきた際は直接戦闘に関係ない土木作業(飛行場設営など)に無用な人力はかけず、陣地構築に集中する。
日本海軍も、西カロリンにアメリカ機動部隊が1944年5月末から6月中旬ごろに進攻してくると予想して、これに決戦を挑み撃破して戦局の転換を図るとした「あ号」作戦を5月20日に発令、新設の第一機動艦隊(空母9隻、搭載機数約440機)と基地航空隊の第一航空艦隊(約650機)を軸に決戦の必勝を期し、ペリリュー島飛行場にも第61航空戦隊の、零式艦上戦闘機(第263海軍航空隊と第343海軍航空隊)、月光(第321海軍航空隊)、彗星(第121海軍航空隊と第523海軍航空隊)、一式陸上攻撃機(第761海軍航空隊)が分遣された[14]。

日本側の予想に沿うように5月27日、西部ニューギニア沖合のビアク島にアメリカ軍が上陸したので、日本軍は渾作戦を発動し海軍第一航空艦隊の大部分をビアク島周辺へ移動、合わせて大和、武蔵の戦艦部隊を送ってアメリカ上陸支援艦隊を撃退しようとした。

ところが大本営の予想は外れて、ビアク島の戦いが続いているにも拘らずアメリカ軍は、6月11日マリアナへ来襲、6月15日サイパン島に上陸してきた。ビアク島救援どころではなくなった日本海軍は、ビアク島空域の作戦をしていた第一航空艦隊をマリアナに呼び戻してアメリカ軍を迎撃させると共に、想定とは違う戦場となるマリアナへ向けて第一機動艦隊を出撃させ、ビアク島到達前に渾作戦が中止となった戦艦部隊も途中で合流させてマリアナ沖海戦に挑んだ[14]が大敗、三角地帯で米軍に反撃を加えるという作戦構想は崩壊してしまった。航空反撃を行おうにも、ラバウルから基地航空隊は既に引き揚げられ、トラックとパラオの航空戦力は壊滅していたため、この時点ではパラオ防衛の戦略的価値は、単にアメリカ軍のフィリピン侵攻の足がかりに利用されるのを防ぐという意味しかなくなってしまっていた。

 

・日本とパラオの関係

 

 

(英語: Japan–Palau relations)とは、日本とパラオの二国間関係を指す。日本はコロールに大使館を、パラオは東京に大使館をそれぞれ置いている。日本とパラオは1994年11月2日に正式に国交を樹立した[1]。

歴史

日本統治時代のコロール
日本とパラオの関係は、江戸時代の1820年(文政3年)に、陸奥国閉伊郡船越浦(現:岩手県山田町船越)の神社丸がパラオに漂着したことから始まる。神社丸は江戸に向かう途中に九十九里浜沖で遭難し、38日後パラオに漂着した。生き残った長吉ら6名はパラオに3年半あまり滞在した後、フィリピンのマニラ、マカオ、浙江省乍浦を経て日本に帰国し、パラオに関する記録を残している[2][3]。

1914年(大正3年)、第一次世界大戦に連合国として参戦した日本は、パリ講和会議に措いて当時ドイツ領ニューギニア(Deutsch-Neuguinea)であったパラオ諸島、カロリン諸島、北マリアナ諸島の委任統治を認められた後、臨時南洋群島防備隊と軍政庁を設置し、パラオを含む南洋諸島統治を開始した。1920年(大正9年)、ヴェルサイユ条約によってパラオは国際連盟の委任統治領として認められたため、1922年(大正11年)に日本はパラオのコロールに南洋庁を置き、委任統治領の行政の中心地とした。日本統治下において、パラオは漁業、農業、鉱業の分野で目覚ましい発展を遂げた。パラオは日本統治期間中、ある程度の自給率を達成していた[4]。パラオは第二次世界大戦中、大日本帝国軍の前線基地として機能し、1944年(昭和19年)にはパラオ諸島南部のペリリュー島とアンガウル島でペリリューの戦いとアンガウルの戦いが行われた。1945年(昭和20年)、南洋諸島の日本統治は第二次世界大戦における日本の降伏とともに終わりを告げた。旧南洋諸島は太平洋諸島信託統治領としてアメリカ合衆国により信託統治されることとなった[5]。

日本は1994年(平成6年)10月1日にパラオのアメリカ合衆国からの独立を承認、同年11月2日にパラオと国交を樹立した。コロールにある日本大使館は1999年(平成11年)に開館した[4]。

文化
かつて日本統治下にあったこともあり、パラオには日本文化の影響が見られる。現代パラオ語には「daijobu(大丈夫)」、「okyaku(お客)」、「denki(電気)」、「senkyo(選挙)」など日本語からの借用語が多数含まれている。また、パラオ料理は日本料理の影響を受けている[4]。

パラオのアンガウル州では,パラオ共和国の公用語であるパラオ語と英語の他、日本語がアンガウル州憲法第12条第1項で公用語として定められている。

 

・中川 州男

(なかがわ くにお、1898年(明治31年)1月23日 - 1944年(昭和19年)11月24日)は、日本の陸軍軍人。陸士30期。最終階級は陸軍中将。

太平洋戦争(大東亜戦争)のペリリューの戦いにおいて、歩兵第2連隊長としてペリリュー島守備隊(約1万2千名)を指揮し、同島を長くても3日で攻略できると楽観していたアメリカ海兵隊(約4万9千名)を相手に71日間に渡って組織的戦闘を続け、自軍の玉砕と引き換えにアメリカ海兵隊に多大な損害を与えた事で知られる[1]。

経歴
熊本県出身。小学校校長・中川文次郎の三男として生まれる。玉名中学校を経て、1918年5月、陸軍士官学校(30期)を卒業し見習士官、同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第48連隊附となる。台湾歩兵第2連隊附、歩兵第48連隊大隊副官、第12師団司令部附(福岡県八女工業学校(現・福岡県立八女工業高等学校)配属将校)、歩兵第48連隊中隊長、歩兵第79連隊大隊長等を歴任する。歩兵第79連隊赴任の直後、盧溝橋事件の勃発により日中両軍は全面衝突し、歩兵第79連隊にも動員命令が下され、中川は初の実戦を経験する。天津から山西省の保定会戦等での野戦指揮官としての功績を認められ、連隊長の推薦により陸軍大学校専科に入校。

「陸軍大学校#専科学生・専攻学生・航空学生」も参照
1939年3月に陸大専科を卒業し、同月に陸軍歩兵中佐に進級。1941年4月、戦功により功四級金鵄勲章を受章。

独立混成第5旅団参謀を経て、第62独立歩兵団参謀となり、1943年3月、陸軍大佐に進級。同年6月、歩兵第2連隊長に補される。連隊所属の第14師団が、満州から南方へ転用されることとなり、パラオ諸島へ向かった。歩兵第2連隊はペリリュー島に歩兵第15連隊の1個大隊と共に配備され、中川が守備隊長となった。赴任前、中川は夫人に任地と任務を尋ねられた際、「永劫演習さ」(帰還を望めない戦場)とだけ答えた。

1944年9月15日、アメリカ軍がペリリュー島に上陸、日米は熾烈な戦闘を継続(ペリリューの戦い)。昭和天皇から中川部隊へ嘉賞11度、上級部隊司令部から感状3度が与えられた。しかし次第に物量に勝る米軍の前に劣勢を強いられ、11月24日にはついに司令部陣地の兵力弾薬も殆ど底を突き、司令部は玉砕を決定、中川が自決した後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による「万歳突撃」が行われた。こうして日本軍の組織的抵抗は終わり、11月27日、ついに米軍はペリリュー島の占領を果たした。中川は戦死後に2階級特進し、陸軍中将に任ぜられた。

中川は一度は宇垣軍縮の煽りを受けて配属将校となり、キャリアを絶たれたかに見えたが、その後の日中戦争の開戦により実戦で野戦指揮官としての能力を認められ、40歳を過ぎて陸大専科に進む等、エリートとは一線を画す叩き上げ軍人であった。それだけに合理的精神の持ち主で、全島を徹底して要塞化、地下陣地化して兵の保全に努め、兵の過早の玉砕を戒めて出来るだけ多くの米兵の出血を強いるという戦術を取り、米上陸軍を苦しめた。中川の取った組織的な戦法・戦術は、後に硫黄島の戦い、沖縄の戦いにおいて参考とされ、米軍に対し効果的な損害を与えることに成功することとなる。

脚注
[脚注の使い方]
^ 葛城 2018, 位置No. 921-1024, 第二章 パラオ「玉砕の島」ペリリュー - アメリカ軍との死闘
参考文献
葛城奈海 他『大東亜戦争 失われた真実』(Amazon Kindle)ハート出版、2018年。
早坂隆『ペリリュー玉砕 南洋のサムライ・中川州男の戦い』文春新書、2019年。
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
関連文献
升本喜年『「愛の手紙」~ペリリュー島玉砕~中川州男の生涯』熊本日日新聞社、2010年。
本書は2016年公開のドキュメンタリー映画『追憶』[1]の原作となっている。
関連項目
堀栄三 - 米軍の戦法を中川に伝授した大本営情報参謀。なお、中川が指揮する歩兵第2連隊が属する第14師団は、堀が米軍の戦法を最初に伝授した師団だった。
ペリリューの戦い
ペリリュー神社
パラオ