【日本軍最強の撃墜王】西沢広義【ずんだもん ゆっくり解説】 | 覚書き

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・珊瑚海海戦

 

 

(さんごかいかいせん、英語: Battle of the Coral Sea)は、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)5月上旬、MO作戦中に日本海軍と連合国(アメリカ合衆国・オーストラリア)軍の間で発生した戦闘[2]。ポートモレスビー攻略を目指して珊瑚海に進出する日本軍の計画を、暗号解読によって知った連合国軍が先に進出し[3][4]、艦上機で日本の攻略部隊を空襲したため、日本海軍が空母部隊で敵空母を捕捉しようとして発生した[5]。5月8日の戦闘では、米空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)と日本海軍の空母2隻(瑞鶴、翔鶴)が攻撃を交わした[6]。この海戦は対抗する両艦隊が互いに相手の艦を視界内に入れずに行われた、歴史上最初の海戦となった[7]。

 

・ガダルカナル島の戦い

 

 

(ガダルカナルとうのたたかい、英: Battle of Guadalcanal)は、第二次世界大戦において1942年8月以降日本軍と連合軍が西太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島を巡って繰り広げた戦いである。ミッドウェー海戦と共に太平洋戦争における攻守の転換点となった。日本側は激しい消耗戦により、戦死者だけでなく兵員に多数の餓死者を発生させたうえ、軍艦、航空機、燃料、武器等多くを失った。

 

・ラバウル航空隊

 

 

(ラバウルこうくうたい)とは、第二次世界大戦時、ニューブリテン島(現在のパプアニューギニア)のラバウル基地に集結してこの空域に展開して戦闘に参加した、日本海軍・陸軍の各航空隊(航空部隊)の総称である。

1942年(昭和17年)1月から、日本軍は南方作戦の一環としてオーストラリア委任統治領であるニューブリテン島を制圧(ラバウルの戦い)。同時に、日本海軍航空隊は南太平洋諸島の確保、トラック諸島の海軍根拠地の防衛、機動部隊の支援を目的にラバウルに進出。同年末には日本陸軍航空部隊も進出し、重要拠点化された。

航空隊は作戦に呼応してアメリカ陸軍・オーストラリア軍に対する東部ニューギニア、およびアメリカ海軍・海兵隊・ニュージーランド軍に対するソロモン方面の各基地を移動転戦したが、戦局の悪化とともに重要性が減り、少数の残存者・航空機を除き1944年(昭和19年)2月にラバウルから撤退したものの、その後も残存者や航空機が終戦に至るまで偵察などの活動を続けた。

 

 

・西澤 廣義/西沢 広義

 

 

(にしざわ ひろよし、1920年1月27日 - 1944年10月26日)は、日本の海軍軍人。第二次世界大戦のエースパイロット。戦死による二階級特進で最終階級は海軍中尉。撃墜数は自称143機だが、後述のように公認撃墜数は87機である。

経歴
1920年(大正9年)1月27日、長野県上水内郡南小川村で退役軍人の父のもとに4男1女の三男として生まれる。実家の家業は農業、養蚕業であった[1]。1934年(昭和9年)3月、南小川小学校高等科を卒業。4月、父の勧めで岡谷の生糸工場に就職[2]。

海軍飛行予科練習生の募集広告を見て受験し、1936年(昭和11年)6月1日、横須賀航空隊の乙種飛行予科練習生第7期(204名)を拝命、海軍四等航空兵に任官[3]。1938年8月15日、霞ケ浦空付。飛行練習生陸上機班を71名中16位で卒業し、戦闘機専修者20名の一人として1939年3月、大分海軍航空隊で教育を受ける[4]。大分空での教員は武藤金義一空曹(支那事変の撃墜王)で九五式艦上戦闘機と九六式艦上戦闘機で学んだ[5]。1940年12月、鈴鹿海軍航空隊(偵察専修者練習航空隊)に配属。偵察専修者を乗せた練習機を操縦する操縦教員を務めた[6]。

ラバウル方面

ソロモン諸島上空を飛行する西沢広義の零式艦上戦闘機 (A6M3)(1943年)

ソロモン海域上空を飛ぶ、零式戦闘機22型。西沢広義搭乗機だとする文献もあるが撮影者の吉田一によれば誰かわかっていない。(1943年5月7日)
1941年(昭和16年)10月1日千歳海軍航空隊に配属。日米開戦に備えて訓練を受ける。サイパン、ルオットと移動し、1942年(昭和17年)2月、トラック島からラバウルに進出。2月3日夜、新月という視界が悪い中、九六式艦上戦闘機で双発飛行艇を迎撃、初めての撃墜を報告する[7]。しかし、豪空軍の記録によれば、この PBY カタリナ飛行艇は被弾しながらも基地に帰投している[8]。

2月10日、第四航空隊に配属。戦闘を重ねて単独撃墜7機、協同撃墜5機を報告している。1942年4月1日、台南海軍航空隊(台南空)に配属。第25航空戦隊が新編され、四空の戦闘機隊の人員、機材が台南空に吸収された。1942年5月1日、モレスビー攻撃で戦闘機一機撃墜を報告。7日、戦闘機二機撃墜を報告。その後も戦闘を重ねる。5月27日、モレスビー攻撃で戦闘機一機撃墜を報告。戦後、坂井三郎は、当時太田敏夫と西沢広義とともに台南空の三羽烏と呼ばれ、この時に3人で中隊から離脱し、無断でポートモレスビーのセブンマイル飛行場上空にて3人で三回連続編隊宙返りを行って他から遅れて帰還したという話を紹介している。しかし、戦闘行動調書によれば、坂井の主張する5月27日はモレスビー上空で交戦後、11時30分に全機がラエに帰着しており、坂井が他の著作で主張した6月25日には太田が出撃していない。その他の日も合わせて日本でも連合軍でも坂井たちが別行動をとった記録はない[9]。1942年8月7日、西沢はガダルカナル島攻撃に参加。西澤は撃墜6機を報告。同戦闘で負傷した坂井三郎が内地に帰還したため、西沢が先任下士官となる[10]。1942年10月21日、西沢は撃墜30機を全軍布告された[11]。

1942年11月1日、台南空は第251海軍航空隊と改称。部隊損耗が大きく再建のために豊橋に帰還。生還した搭乗者は西沢を含め十数名だった。1943年(昭和18年)5月10日、ラバウルに再進出。西沢は鴛淵孝中尉の戦闘教育を任せられる。6月からルッセル島周辺の作戦に従事するも、6月末に連合軍はレンドバ島に上陸したため、251空はラバウル、ブインの基地から出撃して消耗していった。8月1日、レンドバ島上空の二度にわたる空戦で八機を共同撃墜を報告[12]。また、西沢を小隊長とする4機はF4Uコルセア4機と交戦、西沢単独で3機撃墜、部下が1機撃墜を報告している。ラバウル離任時に岡本晴年に「86機撃墜」と語っている[13]。

1943年9月1日、253空に転属。同月、航空艦隊司令長官草鹿任一より100機撃墜記念の感状と「武功抜群」と書かれたのし紙が巻かれた白鞘の軍刀を授与される[14]。10月、内地帰還。

1943年11月1日、大分空に配属。飛行学生教官を務める。教え子には厳しかったが自分の武功を自慢することはなかった[15]。

二〇三空
1944年3月1日、203空に配属。7月10日、戦闘第303飛行隊に所属。北千島方面の防衛にあたる。ベテランが次々死んでいくため経験の浅い者の指揮を心配し軍紀のあり方についての論文を提出する。

1944年(昭和19年)9月下旬、千葉県茂原基地の角田和男飛曹長の部屋に、南東方面の激戦を経験したエース・パイロット、西澤、岩本徹三、長田延義、尾関行治、斎藤三朗らが集まる機会があった。この際、西沢は撃墜数を120機以上と語っている。また、岩本徹三が「敵が来る時は退いて敵の引き際に落とすんだ。つまり上空で待機してて離脱して帰ろうとする奴を一撃必墜するんだ。すでに里心ついた敵は反撃の意思がないから楽に落とせるよ。一回の空戦で五機まで落としたことがあるな」「敵の数が多すぎて勝ち目の無い時は目をつむって真正面から機銃撃ちっぱなしにして操縦桿をぐりぐり回しながら突っ込んで離脱する時もあるよ」と語ると、西沢は「途中で帰る奴なんか、被弾したか、臆病風に吹かれた奴でしょう。それでは(他機との)協同撃墜じゃないですか」と反論している[16]。

1944年(昭和19年)10月、捷号作戦参加のためフィリピンへ進出。10月25日、関行男大尉率いる神風特別攻撃隊敷島隊の直掩を務め戦果を確認する。10月26日、乗機をセブ基地の特別攻撃隊に引渡し、新しい飛行機受領のため、マバラカット基地へ輸送機に便乗して移動する。その途中、輸送機がミンドロ島北端上空に達したところで、ハロルド・P・ニュウェル中尉のグラマンF6Fの攻撃を受けて撃墜され、西沢は戦死した。ニュウェル中尉は百式重爆撃機だったとするが、1021空の河野光揚によれば、一式陸攻ではないかという[17]。

1945年8月15日終戦時、連合艦隊告示172号で、「戦闘機隊の中堅幹部として終始勇戦敢闘し敵機に対する協同戦果429機撃墜49機撃破内単独36機撃墜2機撃破の稀に見る赫々たる武勲を奉し」と全軍布告された。この他の撃墜数に、家族への手紙に記載された143機、戦死時の新聞報道に記載された150機がある。

戦後、太平洋戦争における日米両軍を通じたトップエースの一人として知られ、アメリカ合衆国の国防総省とスミソニアン博物館に杉田庄一と並んで肖像が飾られている[18]。美男子であり身長は180センチ以上あった[15]。戦後書かれた戦記では「ラバウルの魔王」と評された。

脚注
^ 武田信行『最強撃墜王』光人社34頁
^ 武田信行『最強撃墜王』光人社36頁
^ 武田信行『最強撃墜王』光人社46頁
^ 武田信行『最強撃墜王』光人社77頁
^ 武田信行『最強撃墜王』光人社83-84頁
^ 武田信行『最強撃墜王』光人社98頁
^ ゼロ戦の秘密: 驚異の性能から伝説の名勝負までP221
^ Jon Guttman The Devil: Japanese ace of aces Hiroyoshi Nishizawa
^ 『坂井三郎『大空のサムライ』研究読本』p.145-p.156
^ 武田信行『最強撃墜王』光人社364頁
^ 郡義武『坂井三郎『大空のサムライ』研究読本』p.277
^ 武田信行『最強撃墜王』光人社5-6頁
^ p.40,サカイダ,1999
^ p.363,角田,2008、武田信行『最強撃墜王』光人社524-525頁
^ a b ゼロ戦の秘密: 驚異の性能から伝説の名勝負までP223
^ 角田和男『修羅の翼』光人社NF文庫361-365頁
^ p.40 サカイダ,1999
^ 郡義武『坂井三郎『大空のサムライ』研究読本』
参考文献
武田信行『最強撃墜王 零戦トップエース西澤廣義の生涯』光人社、2004年 ISBN 4-7698-1199-3。(文庫版)光人社NF文庫、2009年 ISBN 978-4-7698-1444-3
ヘンリー・サカイダ著、小林昇訳『日本海軍航空隊のエース』大日本絵画、1999年、ISBN 978-4499227124
角田和男『修羅の翼』、今日の話題社、1989年 ISBN 978-4875651345。(文庫版)光人社NF文庫、2008年 ISBN 978-4769825852
郡義武『坂井三郎『大空のサムライ』研究読本』、光人社、2009年

 

・坂井 三郎

 

 

(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26日 - 2000年9月22日)は、日本の海軍軍人。

ポツダム進級により最終階級は海軍中尉。太平洋戦争におけるエース・パイロット。

著書『大空のサムライ』で有名。撃墜数は自称64機だが、後述のように公認撃墜数は28機である。

 

・一木 清直

(いちき[2] [注 1]きよなお、1892年(明治25年)10月16日 - 1942年(昭和17年)8月21日)は、日本の陸軍軍人。陸軍士官学校卒(28期)[3]。

軍歴
1916年 - 陸軍士官学校(28期)卒、陸軍歩兵少尉に任官、歩兵第57連隊附
1918年 - 陸軍歩兵中尉
1926年 - 陸軍歩兵大尉
1927年 - 歩兵第57連隊中隊長
1928年 - 千葉県茂原農学校配属[4]
1930年 - 一宮実業学校配属[4]
1931年 - 歩兵第57連隊機関銃隊長[4]
1933年 - 陸軍歩兵学校(甲)学生
1934年 - 陸軍歩兵少佐
1935年 - 陸軍歩兵学校教官
1936年 - 支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊長
1937年7月7日 - 盧溝橋事件[注 2]
1938年 - 陸軍歩兵中佐、陸軍歩兵学校教官
1939年 - 兼・陸軍戸山学校教官
1940年 - 陸軍歩兵学校材料廠長
1941年 - 陸軍大佐、歩兵第28連隊長
1942年
5月5日 - ミッドウェー島占領部隊の「一木支隊」支隊長(大陸命第625号)[6][7]
5月14日 - ミッドウェー作戦により一木支隊は輸送船2隻(善洋丸、南海丸)に分乗して広島県宇品を出撃する[8]。
5月25日 - サイパン島到着、同地でミッドウェー島攻略を想定した上陸訓練をおこなう[9]。
5月28日 - 第二水雷戦隊(司令官:田中頼三少将)に護衛されてサイパンを出発する[9]。
6月5日 - 軍旗祭をおこなうが、日本海軍はミッドウェー海戦で大敗していた[9]。
6月13日 - グアム島到着[注 3]。以後二か月ちかく同島に滞在する[9]。
8月6日 - 帰還命令が出され、翌7日に輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)に分乗してグアムを出発する[11]。
8月12日 - 行く先が二転三転した末にトラック泊地着、第十七軍の隷下となる[9]。
8月16日 - 一木支隊は先遣隊と第二梯団に分割され、一木大佐は先遣隊916名を率いて高速の駆逐艦6隻に分乗、トラック泊地を出撃する[9]。速射砲など重火器を装備した一木支隊第二梯団は低速の輸送船2隻に分乗し[12]、第二水雷戦隊護衛下で同時にトラック泊地を出撃する[13]。
8月18日 - 深夜、一木支隊先遣隊はガダルカナル島タイボ岬に上陸、ヘンダーソン基地奪回を目指して西進する[9]。
8月20日 - 護衛空母ロングアイランドが戦闘機と急降下爆撃機をヘンダーソン飛行場に空輸、米軍は制空権を掌握する[14]。ガ島にむかっていた一木支隊第二梯団は、反転退避する[15]。
8月21日 - ガダルカナル島の戦いのイル川渡河戦(米国名:テナルの戦い)で一木支隊先遣隊は壊滅し[9]、一木大佐も督戦中に死亡[16]。同日付で陸軍少将に進級[1]。
1943年 - 日本陸軍が陸軍少将進級を発表[注 4]。

 

・角田 和男

 

 

(つのだ かずお、1918年(大正7年)10月11日 - 2013年(平成25年)2月14日)は、日本の海軍軍人、海軍航空隊戦闘機搭乗員。太平洋戦争(大東亜戦争)における撃墜王。乙飛5期。最終階級は海軍中尉。

 

・岩本 徹三

 

 

(いわもと てつぞう、1916年〈大正5年〉6月14日 - 1955年〈昭和30年〉5月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍特務中尉。第二次世界大戦の撃墜王。島根県出身。

 

・坂井 三郎

 

 

(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26日 - 2000年9月22日)は、日本の海軍軍人。
ポツダム進級により最終階級は海軍中尉。太平洋戦争におけるエース・パイロット。著書『大空のサムライ』で有名。撃墜数は自称64機だが、後述のように公認撃墜数は28機である。

 

・関 行男

 

(せき ゆきお[1][注釈 1]、1921年(大正10年)8月29日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。海兵70期。最終階級は海軍中佐。レイテ沖海戦において、初の神風特別攻撃隊の一隊である「敷島隊」(爆装零戦5機)を指揮して、アメリカ海軍の護衛空母「セント・ロー」を撃沈し、さらに護衛空母3隻を撃破した武功で知られる[3]。

 

・赤松 貞明

 

 

(あかまつ さだあき、1910年(明治43年)7月30日 - 1980年(昭和55年)2月22日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍中尉。日中戦争、太平洋戦争の撃墜王。

 

・マンフレート・アルブレヒト・フォン・リヒトホーフェン男爵

 

 

(Manfred Albrecht Freiherr von Richthofen、1892年5月2日 - 1918年4月21日)は、ドイツの陸軍軍人、パイロット。第一次世界大戦参加各国で最高の撃墜機記録(80機撃墜、ほか未公認3)を保持するエース・パイロットとして知られる。乗機を鮮紅色に塗装していたことから「レッド・バロン」(赤い男爵)や「ディアブル・ルージュ」(赤い悪魔)の異名で呼ばれた。

 

グラマン F6F ヘルキャット

 

 

(英語: Grumman F6F Hellcat)は、アメリカ合衆国のグラマン社が開発しアメリカ海軍が第二次世界大戦中盤以降に使用した艦上戦闘機。愛称の「ヘルキャット(Hellcat)」は、直訳すれば「地獄の猫」であるが、スラングでは「性悪女」や「意地の悪い女」の意味も持つ。

アメリカ海軍の本命は1940年に初飛行したF4Uであったが、実際には開発時期が遅いこちらのヘルキャットが艦上戦闘機の主力となった。

 

・神風特別攻撃隊

 

(かみかぜとくべつこうげきたい[1][2][3][4]しんぷうとくべつこうげきたい[5][6][7]、旧字体:神󠄀風特別攻擊隊󠄁)は、第二次大戦で大日本帝国海軍によって編成された爆装航空機による体当たり攻撃部隊(特別攻撃隊)と直接掩護並びに戦果確認に任ずる隊で構成された攻撃隊[8]。攻撃目標は艦船[9]。略称は「神風」「神風特攻隊」[10]。隊名の発案者[注 1]・猪口力平によれば、「神風」の読みは音読みの「しんぷう」であるが、当時のニュース映画で訓読みの「かみかぜ」と読み上映したことでその読みが定着した[7]。昭和19年(1944年)10月から終戦までの約10か月間に渡って出撃を繰り返した。

日本国内では戦後になって、軍が組織的に兵士(国民)に自爆攻撃を強いたことに対する批判がされてきたが[11]、アメリカ海軍を主力とする連合国海軍に多大な損害を与えたこともあって、米国戦略爆撃調査団から「日本人によって開発された唯一の、もっとも効果的な航空兵器」と評され[12]、アメリカ海軍大学校の教科書では「Kamikazeは人間が操縦する巡航ミサイルであり、精密攻撃の時代の海戦を予兆していた。」とも指摘されている[13]。

本土決戦に備えて白兵戦を想定した民間有志による「神風特攻後続隊」が昭和20年(1945年)に組織されたほか[14] 、大日本帝国陸軍のと号部隊を含む特攻全般を「神風」と呼称することもあるが、ここでは制度上の神風特別攻撃隊について述べる。