Dou-gen-道元 | 覚書き

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「道元」知ってるつもり

https://www.youtube.com/watch?v=TbpTWpre0fk

 

     

          仏道を習うということは自己を習うことなり

 

 

「無常たのみ難し。知らず露命(ろめい)いかなる道の草にか落ちん、

身すでに私に非(あら)ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し。
紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡(しょうせき)なし。
つらつら観ずるところに、往事の再び逢うべからざる多し。
無常忽(たちま)ちに至るときは、国王、大臣、親じつ、従僕、妻子、珍宝たすくるなし。
ただ独り黄泉に赴くのみなり。己れに随い行くは、ただこれ善悪業等のみなり。」

 

 

「阿耨菩提に伝道授業の仏祖おほし。粉骨の先蹤即不無なり、

断臂の祖宗まなぶべし、掩泥の毫髪もたがふることなかれ。
各々の脱殻をうるに、従来の知見解会に拘牽せられず、

曠劫未明の事、たちまちに現前す。
恁麼時の而今は、吾も不知なり、誰も不識なり。

汝も不期なり、仏眼もショ不見なり。人慮あに測度せんや。」

 

 

「大宋国に東坡居士蘇軾とてありしは、字は子瞻といふ。
筆海の真龍なりぬべし。仏海の龍象を学す。重淵にも遊泳す、層雲にも昇降す。
あるとき、廬山にいたれりしちなみに、渓水の夜流する声をきくに悟道す。
偈をつくりて常総禅師に呈するにいはく、

谿声便ち是れ広長舌、山色清浄身に非ざること無し。
夜来八万四千の偈、他日如何が人に挙似せん。
この偈を総禅師に呈するに、総禅師 然之す。
総は照覚常総禅師(なり、総は黄龍慧南禅師(の法嗣なり。
南は慈明楚円禅師の法嗣なり。」

 

 

「居士、あるとき仏印禅師了元和尚と相見するに、仏印さづくるに法衣仏戒等をもてす。
居士つねに法衣を塔して修道しき。居士、仏印にたてまつる に無価の玉帯をもてす。
ときの人いはく、凡俗所及の儀にあらずと。
しかあれば、聞谿悟道の因縁、さらにこれ晩流の潤益なからんや。
あはれむべし、いくめぐりか現身説法の化儀にもれたるがごとくなる。
なにとしてかさらに山色を見、谿声をきく。
一句なりとやせん、半句なりとやせん、八万四千偈なりとやせん。
うらむべし、山水にかくれたる声色あること。
又よろこぶべし、山水にあらはるる時節因縁あること。
舌相も懈倦なし、身色あに存没あらんや。
しかあれども、あらはるるときをやちかしとならふ、かくれたるときをやちかしとならはん。
一枚なりとやせん、半枚なりとやせん、従来の春秋は山水を見聞せざりけり、
夜来の時節は山水を見聞することわづかなり。
いま学道の菩薩も、山流水不流より学入の門を開すべし。」

 

 

「この居士の悟道せし夜は、そのさきの日、総禅師と無情説法話を参問せしなり。

禅師の言下に翻身の儀いまだしといへども、

谿声のきこゆるところは、逆水の波浪たかく天をうつものなり。

しかあれば、いま渓声の居士をおどろかす、谿声なりとやせん、照覚の流瀉なりとやせん。

うたがふらくは照覚の無情説法話、

ひびきいまだやまず、ひそかに谿流のよるの声にみだれいる。

たれかこれ一升なりと辨肯せん、一海なりと朝宗せん。

畢竟じていはく、居士の悟道するか、山水の悟道するか。

たれの明眼あらんか、長舌相、清浄身を急著眼せざらん。」

 

 

「また香厳智閑禅師、かつて大イ大円禅師の会に学道せしとき、大イいはく、
「なんぢ聡明博解なり、章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取しきたるべし。」香厳、いはんことをもとむること数番すれども不得なり。
ふかく身心をうらみ、年来たくはふるところの書籍を披尋するに、なほ茫然なり。
つひに火をもちて年来のあつむる書をやきていはく、
「画にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。
われちかふ、此生に仏法を会せんことをのぞまじ。ただ行粥飯僧とならん。」
といひて、行粥飯して年月をふるなり。
行粥飯僧といふは、衆僧に粥飯を行益するなり。このくにの陪饌役送のごときなり。
かくのごとくして大イにまうす、
「智閑は心神昏昧にして道不得なり、和尚、わがためにいふべし。」
大イのいはく、
「われなんぢがためにいはんことを辞せず、おそらくは、のちになんぢわれをうらみん。」
かくて年月をふるに、大証国師の蹤跡をたづねて、武当山にいりて、国師の庵のあとに、
くさをむすびて爲庵す。竹をうゑてともとしけり。
あるとき、道路を併浄するちなみに、かはらほとばしりて、
竹にあたりてひびきをなすをきくに、豁然として大悟す。
沐浴し、潔斎して、大イ山にむかひて焼香礼拝して、大イにむかひてまうす、
「大イ大和尚、むかしわがためにとくことあらば、いかでかいまこの事あらん。
恩のふかきこと、父母よりもすぐれたり。」

つひに偈をつくりていはく、

一撃に所知を亡ず、更に自ら修治せず
動容古路を揚ぐ、悄然の機に堕せず
処々蹤跡無し、声色外の威儀なり
諸方達道の者、咸く上上の機と言はん
この偈を 大イに呈す。
大イいはく、
「此の子、徹せり。」

 

 

 

 

 

「目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ。

耳をかろくすることなかれ、耳をおもくすることなかれ。

耳目をして聡明ならしむべし」

 

 

「東西南北の風を問わず、一等他の為に般若を談ず」

 

 

「今は云く、この言ふことは、全く非なり。

仏法に正像末(しょうぞうまつ)を立つ事、しばらく一途(いっと)の方便なり。

真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に希有(けう)に浅間しき心根、下根なるもあり。

仏、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。

人々皆仏法の器なり。非器なりと思ふ事なかれ、依行せば必ず得べきなり」

 

 

道元


道元
正治2年1月2日 - 建長5年8月28日(旧暦)
(1200年1月19日 - 1253年9月22日(ユリウス暦))

 
 
道元禅師
   


諡号    仏性伝燈国師[1]、承陽大師[2]
尊称    高祖
生地    山城国乙訓郡久我村 誕生寺
没地    京都
宗旨    曹洞宗
寺院    永平寺
師    天童如浄
弟子    孤雲懐奘
著作    『正法眼蔵』、『永平清規』
廟    永平寺承陽殿
道元(どうげん、正治2年1月2日(1200年1月19日) - 建長5年8月28日(1253年9月22日))は、鎌倉時代初期の禅僧[3]。日本における曹洞宗の開祖[3]。晩年に希玄という異称も用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は仏性伝燈国師、承陽大師。諱は希玄[3]。一般には道元禅師と呼ばれる。徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。『正法眼蔵』は、和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めた[注釈 1]。

 

 

目次
1生い立ち
2主な活動
3教義・思想
4著書
5脚注
5.1注釈
5.2出典
6参考文献
7関連項目
8外部リンク
生い立ち[編集]
道元は、正治2年(1200年)、京都の久我家に生まれた。幼名は信子丸。両親が誰であるかについては諸説ある。

一時定説化した仏教学者・大久保道舟の説によれば、父は内大臣・源通親(久我通親または土御門通親とも称される)であり、母は太政大臣・松殿基房(藤原基房)の娘である藤原伊子であって、京都・木幡の松殿山荘で生まれたとされていた。だが、説の根拠とされた面山瑞方による訂補本『建撕記』の記載の信用性に疑義があり、上記説の優位性が揺らいだ。これを受けて、上記説では養父とされていた、源通親の子である大納言・堀川通具を実父とする説も有力になった[4]。いずれにせよ、上級貴族、公卿の家の生まれである。

四国地方には道元の出生に関して、「稚児のころに藤原氏の馬宿に捨てられていたのを発見され、その泣き声が読経のように聞こえるので神童として保護された」との民間伝承が残っている。これはキリストや聖徳太子の出生にまつわる話と混同されて生じたものであると考えられる。

伝記である『建撕記』によれば、3歳で父(通親)を、8歳で母を失って[3]、異母兄である堀川通具の養子になった。また、一説によれば、両親の死後に母方の叔父である松殿師家(元摂政内大臣)から松殿家の養嗣子にしたいという話があったが、世の無常を感じ出家を志した道元が断ったとも言われている。この時の逸話として残っているのが、誘いを受けた道元が近くに咲いていた花を、その花に群がっていた虫ごとむしりとって食べはじめ、無言のうちにその申し出を拒否する意志を伝えたという話である。

主な活動[編集]

 

道元禅師示寂の地

建暦3年(1213年) 比叡山にいる母方の叔父良顕を訪ねる。[要検証 – ノート]
建保2年(1214年) 天台座主公円について出家し[3]、仏法房道元と名乗る。
建保3年(1215年) 園城寺(三井寺)の公胤の元で天台教学を修める[3]。
建保5年(1217年) 建仁寺にて栄西の弟子・明全に師事[3]。
貞応2年(1223年) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り[3]
南宋の宝慶1年(1225年)、天童如浄の「身心脱落」の語を聞いて得悟[3]。中国曹洞禅の、只管打坐の禅を如浄から受け継いだ[3]。曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。[要追加記述]その際の問答記録が『寶慶記』(題名は当時の年号に由来)である。
安貞元年(1227年) 帰国[5][6]。帰国前夜『碧巌録』を書写したが、白山妙理大権現が現れて手助けしたという伝承がある(一夜碧巌)。また、同年『普勧坐禅儀』を著す[5]。
天福元年(1233年) 京都深草に興聖寺を開く[3]。「正法眼蔵」の最初の巻である「現成公案」を、鎮西太宰府の俗弟子、楊光秀のために執筆する[7]。
1234年 孤雲懐奘が入門[3]。続いて、達磨宗からの入門が相次いだことが比叡山を刺激した[3]。この頃、比叡山からの弾圧を受ける。
寛元元年(1243年)7月 越前国の地頭波多野義重の招きで越前志比荘に移転[3]。途中、朽木の領主佐々木信綱の招きに応じ、朽木に立ち寄る(興聖寺の由来)
寛元2年(1244年) 傘松に大佛寺を開く。
寛元4年(1246年) 大佛寺を永平寺に改め、自身の号も希玄と改める。
宝治2-3年(1248-49年)[要検証 – ノート]、執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。鎌倉での教化期間は半年間であったが、関東における純粋禅興隆の嚆矢となった。
建長5年(1253年) 病により永平寺の住職を、弟子孤雲懐奘[注釈 2]に譲り、俗弟子覚念の屋敷(京都高辻西洞院)で[要出典]没す[3]。享年54(満53歳没)。死因は瘍とされる。
教義・思想[編集]
ひたすら坐禅するところに悟りが顕現しているとする立場が、その思想の中核であるとされる[3]。道元のこの立場は修証一等や本証妙証と呼ばれ、そのような思想は75巻本の「正法眼蔵」に見えるものであるとされるが、晩年の12巻本「正法眼蔵」においては因果の重視や出家主義の強調がなされるようになった[3]。
成仏とは一定のレベルに達することで完成するものではなく、たとえ成仏したとしても、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることこそが成仏の本質であり(修証一等)、釈迦に倣い、ただひたすら坐禅にうちこむことが最高の修行である(只管打坐)と主張した。
鎌倉仏教の多くは末法思想を肯定しているが、『正法眼蔵随聞記』には「今は云く、この言ふことは、全く非なり。仏法に正像末(しょうぞうまつ)を立つ事、しばらく一途(いっと)の方便なり。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に希有(けう)に浅間しき心根、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の器なり。非器なりと思ふ事なかれ、依行せば必ず得べきなり」と、釈迦時代の弟子衆にもすぐれた人ばかりではなかったことを挙げて、末法は方便説に過ぎないとして、末法を否定した。
南宋で師事していた天童如浄が、ある日、坐禅中に居眠りしている僧に向かって「参禅はすべからく身心脱落(しんじんだつらく)なるべし』と一喝するのを聞いて大悟した[9]。身心脱落とは、心身が一切の束縛から解き放たれて自在の境地になることである[10]。道元の得法の機縁となった「身心脱落」の語は、曹洞禅の極意をあらわしている[10]。
道元は易行道(浄土教教義の一つ)には、否定的な見解を述べている[注釈 3]。

ウィキクォートに道元に関する引用句集があります。

著書[編集]

  • 正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう、七十五巻本+十二巻本+補遺)
    新装版『原典日本仏教の思想7・8 道元 正法眼蔵』(岩波書店、1990-91年) 
  • 永平廣録』(えいへいこうろく、全十巻)
    • 『永平廣録』(石井恭二訓読・注釈・訳、河出書房新社 上中下、2005年)
    • 『永平廣録 道元禅師の語録』(篠原壽雄、大東出版社 全3巻、1998年) 
    • 『永平廣録提唱』(西嶋和夫訳、金沢文庫11分冊、1997年)
    • 『道元和尚廣録』(寺田透訳、筑摩書房 上下、1995年)
    • 『道元禅師語録』(鏡島元隆編、講談社学術文庫、1990年)- 文庫判は各抄版
    • 『道元「永平広録・上堂」選』(大谷哲夫全訳注、講談社学術文庫)
    • 『道元「永平広録・頌古」』(大谷哲夫全訳注、同上)
    • 『道元「永平広録 真賛・自賛・偈頌」』(大谷哲夫全訳注、同上、2005-2014年)
  • 普勧坐禅儀』-『永平広録』巻八
    • 『道元「小参・法語・普勧坐禅儀」』(大谷哲夫全訳注、講談社学術文庫、2006年)
  • 『永平清規 (典座教訓、対大己法、弁道法、知事清規、赴粥飯法、衆寮箴規)』
    読みは(えいへいしんぎ(てんぞきょうくん、たいたいこほう、べんどうほう、ちじしんぎ、ふしゅくはんほう、しゅうりょうしんぎ))
  • 正法眼蔵随聞記』(しょうぼうげんぞうずいもんき) - 懐奘編で道元の言行録。
  • 寶慶記』(ほうきょうき、在宋中の道元が師とかわした問答の記録)
    • 『宝慶記-道元の入宋参学ノート』(池田魯参、大東出版社、1989年、新装版2004年)
    • 『道元禅師 宝慶記 現代語訳・註』(水野弥穂子、大法輪閣、2012年)
    • 『道元「宝慶記」全訳注』(大谷哲夫、講談社学術文庫、2017年)
  • 道元禅師全集』(全7巻、春秋社、1988-93年)、河村孝道、鏡島元隆、鈴木格禅ほか校註
  • 道元禅師全集 原文対照現代語訳』(全17巻、春秋社、1999-2013年)、鏡島元隆監修、水野弥穂子石井修道角田泰隆ほか訳註

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ なお、ハイデガーに言及する論調もあるが、これを裏付ける一次資料は見出されていない。ヤスパースについても同様である。
  2. ^ 懐奘は『正法眼蔵随聞記』を記した[8]
  3. ^ 「今人云はく、行じ易きの行を行ずべし、と。この言尤も非なり、太だ佛道に合はず。…好道の士は易行に志すことなかれ。若し易行を求むれば、定んで實地に達せず、必ず寶所に到らざるものか[11]」。

出典[編集]

  1. ^ 1854年(嘉永7年)孝明天皇
  2. ^ 1879年(明治12年) 明治天皇
  3. a b c d e f g h i j k l m n o p q 中村元ほか(編)『岩波仏教辞典』岩波書店、2002年10月、第二版、752-753頁。
  4. ^ 道元の父母については『孤高の禅師 道元 日本の名僧』(中尾良信編、吉川弘文館,2003)50頁以下参照。
  5. a b 岩波仏教辞典 1989, p. 605.
  6. ^ ひろ 2013, p. 14.
  7. ^ ひろ 2013, p. 14~15、26.
  8. ^ 正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年8月31日閲覧。
  9. ^ 禅の本 1992, p. 44.
  10. a b 岩波仏教辞典 1989, p. 465.
  11. ^ 『永平初祖學道用心集』の「第六、参禅に知るべき事」より。
  12. ^ 旧版に『日本古典文学大系81 正法眼蔵 正法眼蔵随聞記』(西尾実鏡島元隆酒井得元・水野弥穂子校注、岩波書店、1965年)

参考文献[編集]

  • 『道元禅師と永平寺〜CD版』(日本音声保存)
  • Dogen "Shobogenzo" Ausgewaehlte Schriften.
    ロルフ・エルバーフェルト、大橋良介編でドイツ語訳
    〈井筒ライブラリー・東洋哲学3〉(慶應義塾大学出版会、2006年)
  • ひろさちや『新訳 正法眼蔵』PHP研究所、2013年。ISBN 978-4-569-81270-0
  • 『禅の本』学習研究社、1992年。
    • 「道元」(同所収)49-61頁
    • 「山中の宗僧」(同所収)63-76頁。
    • 「寶慶寺の雲水」(同所収)77-89頁。
    • 寂円の画像」(同所収)91-104頁。

関連項目[編集]