Friedrich III and Logos-フリードリッヒ3世と言霊 | 覚書き

覚書き

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備考

・大野靖志氏はエンペラーコードのズーム版で、フリードリヒ三世は言霊を使って成功したと言及していた。

 

 

フリードリッヒ三世

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%923%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)

 


死神を味方につけたフリードリヒ3世

http://www.onyx.dti.ne.jp/sissi/episode-54.htm
line

フリードリヒ3世
フリードリヒ3世
今日はハプスブルク家で最もウスノロな皇帝とされるフィリードリヒ3世のお話しです。

フリードリヒ3世は1415年9月21日、チロルの古都インスブルックで生まれました。父はイタリアの血を引く陽気なエルンスト鉄公、そして母親は素手で釘を打ち込んだり馬蹄を折り曲げたりできたというリトアニアの豪傑(いくらなんでも誇張のしすぎと思いますが)のシムプルギス・フォン・マゾービエン。フリードリヒはこの母親から粘着質の性格を受け継いだそうです。なんだか凄そうですね。

フリードリヒという名がついたのにはワケがありました。もともと当時のチロルはエルンスト鉄公の弟であるフリードリヒ文無し公のご領地だったのですが、この人は時の神聖ローマ皇帝(=ドイツ王)だったルクセンブルク家のジギスムントに刃向かって帝国追放に。その領地を保全するために来たエルンスト鉄公は、自分がチロルをフリードリヒ文無し公から分捕ったと誤解されるのを恐れて、息子に自分の弟と同じ名前をつけたのだそうです。その成果があってか、フリードリヒ3世は叔父フリードリヒ文無し公に負けないほどの「文無し」にもなりましたよ。サイテーですね。

さて、そうした冴えない生い立ちをもつフリードリ3世に、ある日神聖ローマ帝国の帝位が転がり込んできました。前帝だったルクセンブルク家のジギスムントが嗣子なしで没し、次の皇帝に選ばれたハプスブルク家のアルプレヒト(ジギスムントの娘婿)もアーヘンでの戴冠式を済ませないうちに、対オスマン・トルコ戦の最中ハンガリーで赤痢のために死んでしまったからです。また、当時神聖ローマ皇帝というのは7人の選帝侯による選挙で選ばれていたのですが、この人たちは自分たちの権力の脅威となる強い皇帝の出現など望んでいませんから、フリードリヒ3世のようなウスノロなら喜んで投票しました。

こうして帝位に就いたフリードリヒ3世は、選帝侯たちの期待以上に腰抜けぶりを発揮しました。異教徒のオスマン・トルコがコンスタンティノープルを陥落させても(1453年)、庭いじりをしながら「それは嘆かわしいことだ」というだけで、応戦の気配はなし。おまけにハンガリーの王冠は待女に盗まれてアルブレヒトの妃だったエリザベートの手に渡り、そのあとひと悶着を経てエリザベートの息子ラディアスがハンガリー王に就任。さらにラディアスの摂政となったハンガリー貴族のフニャディは自分の息子マティアス・コルヴィヌスをハンガリーの王とし、ついでにオーストリアにも攻め込んでウィーンを陥落させます。しかし、フリードリヒ3世はウィーンの町を見殺しにして、さっさと逃亡すりばかりでしたした。これに業を煮やした弟のアルプレヒト公は3,000人の軍勢を率いて「帝位をこちらによこせ」と迫ってきましたが、フリードリヒ3世はこれまた篭城とか早逃げでしのぎました。ついでながら、逃亡の費用は法王ニコラス5世などに押し付けていたそうですよ。トホホ。

こうして逃げ回る間、フリードリヒ3世はあつこちの館に「aeiou」という意味不明な5文字を刻み続けます。いったい何のつもりだったのでしょうね、これ。

フリードリヒ3世は結婚生活も悲惨でした。皇帝になったあとポルトガル王家の血をひくエレオノーレと結婚したのですが、なにしろ文無しですから、求婚の使者として送った使者は追い剥ぎも避けるほどの乞食みたいな恰好でリスボンに到着。当地の官警から怪しまれて牢に投げ込まれたといいます。それでも「皇帝」の名に魅かれてエレオノーレはウィンナーノイシュタット(ウィーンのやや南)にあるフリードリヒの城にお輿入れ。この城があまりにもボロいので、正真正銘の貧乏がバレ、夫婦の仲もサイテーに。どうしようもありませんね。

しかし!ここで空気の流れが変わってきます。1463年12月、帝位を要求していた弟のアルプレヒト公が医師を敵の回し者と誤解して診察を断り病死。1490年4月、ハンガリー王だったマティアス・コルヴィアヌスは嗣子もないままウィーンで死亡。その他のライバルたちも次々と寿命がきてしまいました。

さらに、フリードリヒ3世にはできのよい息子マクシミリアンが誕生。しかもフリードリヒ3世は自分のもつ2つの大きな称号のうちローマ王の地位を生前のうちに息子へ与えることに成功します。これでフリードリヒ3世亡き後は次期神聖ローマ皇帝にマクシミリアンが就くという道筋ができ、7人の選帝侯による選挙は廃止に向かいました。それからフリードリヒ3世はマクシミリアンをブルゴーニュ公シャルルの1人娘マリーと結婚させることにも成功。おまけにブルゴーニュ公シャルルは戦好きが不運を招きスイス軍相手に戦死。これで当時の先進国だったブルゴーニュがハプスブルク家のものとなりました。

フリードリヒ3世が亡くなったのは1493年8月でした。メロンの食べすぎが原因だったと言われています。享年78歳。当時としては、すごい長生きですね。そして、このウスノロ皇帝は、結局この長生きのおかげですべての敵に勝ってしまいました。あちこちを逃げ回りながら、死神を味方につけていたんですね。こういう勝ち方もあるとは、歴史って皮肉であるとともに、面白いものです。

その後、かつてのライバルたちの息子はスカばかりでした。一方、フリードリヒ3世の息子マクシミリアン1世はなかなかの名君となり、この皇帝の代からその孫のカール5世に時代にかけて、ハプスブルク帝国は「日の沈まない国」への道を邁進してゆきました。これを見て後の世には、「フリードリヒ3世が刻んだあのaeiouという謎の5文字は『世界はオーストリアのもの』の略号ではなかったのか」なんて分析しているお調子者もいます。私は、こじつけだと思いますけど。やっぱり、フリードリヒ3世は単に運のよかった臆病者だったのでしょう。ただ、臆病ということは決して悪いことではありません。フリードリヒのライバルたちも、大きな勇気に加えてほんの少しの臆病さをもったら、もう少し運は開けていたでしょうね。

 

AEIOU

https://ja.wikipedia.org/wiki/A.E.I.O.U._(%E7%95%A5%E8%AA%9E)

 

https://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/c8857f18577b40ef35bdb12bec054e61

 

ハプスブルグ家の言霊による繁栄
2012-10-21 07:16:34 | 超能力・霊能力
◎AEIOU

ハプスブルグ家は、もともとチロルの田舎領主に過ぎなかったが、ルネッサンス前夜からヨーロッパに日の沈まない帝国を築いた。その急速な勢力の拡大の手段は、表面的には、理財、閨閥による領地拡大と戦争の回避であった。

特に理財は、徴税制度の整理や、放漫財政の改善、そしてフッガー家に銀の採掘権を与えることによりハプスブルグ家は莫大な収益を挙げることになり、チロルのインスブルックの王宮には黄金の小屋根を作るほどになった。後にフッガー家は調子に乗ってローマ教会と組んで免罪符発売を大々的に行い、ルターの宗教改革の原因を作ることになる。

ハプスブルグ家が急速に勢力を拡大した立役者は、マクシミリアン1世(Maximilian I, 1459年3月22日 - 1519年1月12日)であるが、実は、その父フリードリヒ3世こそが、言霊を用いてハプスブルグ家をヨーロッパ最強の国家に押し上げる基礎を築いたようにように見えるのである。

神聖ローマ帝国皇帝だったフリードリヒ3世は、一見だめな王様だった。
1453年、メフメト2世率いるオスマン帝国軍によってコンスタンティノープルは陥落し、隣国東ローマ帝国は滅んだが、この驚愕のニュースを聞いたフリードリヒ3世は、応戦の覚悟も示さず、庭いじりしながら何事も無かったかのようにそれを聞いた。これにより、人々はフリードリヒ3世を凡愚と批判した。

こんな凡庸な兄を見透かして、弟アルブレヒト6世大公は、1463年にウィーンの不穏分子を煽り暴動を起こさせたところ、フリードリヒ3世は、10日後にウィーンに駆けつけたものの、追い払われて逃亡した。

フリードリヒ3世は、このように各地で逃亡を繰り返しながらも、オーストリア、ハンガリーなど政敵の死去により、なぜか結果的に次々と領地を拡大できた。

こんな風にヨーロッパ各地を逃亡しながら、フリードリヒ3世が、調度品や壁画などに刻み続けた言葉がある。それがAEIOUである。

古神道家ならアオウエイならぬアエイオウの言霊とすぐわかる。この領地の拡大の仕方を見ると、言霊の妙用を心得たクンダリーニ・ヨーギがフリードリヒ3世の背後にいて、的確なアドバイスをし続けたのではないかと。

AEIOUは、ラテン語で、「世界はオーストリアのもの」というフレーズの頭文字を並べたという説を唱える学者もいるが、そうではないだろう。フリードリヒ3世は、生涯AEIOUの意味を明かすことはなかったという。

後世、ハプスブルグ家の領地プラハが魔術の都として栄えるが、そういう伝統が既にチロルにはあって、それが伝播した可能性もある。

以下は霊界物語73巻による出口王仁三郎のアオウエイの説明。アオウエイは現象世界を構築する基礎の基礎。それを妙用できれば、澄みきりすみきる心楽しいことである。

『大虚空一点のヽあらはれて
  スの言霊は生れ出でたり
 澄みきりしスの言霊は生ひ立ちて
  天之峯火夫の神とならせり

 峯火夫の神の功のなかりせば
  紫微天界は生れざるべし
 久方の天之峯火夫の神は天界の
  万有諸神が主神に坐します
 主の神の力によりて宇迦須美の
  神の御霊は生れましけり


主の神の初声にあれし言霊は
  宇迦須美の神のウ声なりけり

ウの神の功は下りて大津瑞穂
  神と生れます言霊なりけり
 ウの神は上に開きて天津瑞穂
  アの言霊と生れたまひぬ

起し助け大成大気の活用(はたらき)は
  オの言霊の功なりけり

内に集り空に開くる活用(はたらき)は
  ア行エ声の言霊なりけり

火と水をあやなしこれの天界に
  命を与ふるイの言霊よ


生き生きて生きの果なき天界を
  造りたまひし主の神畏し

 広々と果しも知らぬ天界に
  澄みきりすみきる心楽しも』

 

https://ameblo.jp/japanedu/entry-12308400590.html

 

【 メディアが教えない 】 日本と世界の裏事情 <その4>
2017-09-06 23:33:38
テーマ:日本と世界
明治維新は、世界でも稀な流血が少ない革命でした。

 

この革命は、徳川幕府の支配力が弱くなり、海外列強が開国をせまってきたから、

ごくごく自然な流れでなされたものではありません。

 

しっかりと計画をもってなされたものでした。

 

明治維新の発端は、明治維新から半世紀以上遡る1814-1815年のウィーン会議。

この時に、長らく鎖国で国を閉ざしていた日本に開国してもらおう、ということが決定されました。

 

この会議を主導したのは、神聖ローマ(オーストリア)のメッテルニヒです。

当時の神聖ローマはハプスブルク家で、

すでに落合莞爾氏が秘史を発表していっていますが、

実はハプスブルク家は日本の皇室の系統です。

 



落合莞爾氏

 

日本で亡くなったことになっている伏見宮治仁王が渡欧してハプスブルク家に入り、

彼の息子のフリードリヒ3世がハプスブルク家で初めての神聖ローマ皇帝となりました。

にわかには信じられないことでしょう。

信じるか信じないかはお任せします。

 



フリードヒリ3世

 

日本の皇室の血は、他にも様々な欧州王室に入っているようです。

その系統は、護良親王(大塔宮)の後裔です。

また、日本から皇族だけでなく職人なども渡欧したので、欧州で成長した産業もいくつかあるようです。

フランドルの毛織物工業は、日本の麻織職人の技術によって質が向上して有名になったとのこと。

他にも。

聞くと、そのブランド好きがショックを受けるようなものも。

 

わたしも色々知って改めて考えたのですが、

結局王政や王室があるのは結構国が安定するのですよね。

政治は民主政治でも、王室があるだけで政体の権力者が暴走しそうになっても牽制役になりますよね。

日本では、平氏の辺りから皇室と政治をやる主体を分離したので、

これが皇室の歴史が存続し、かつ、日本がある程度安定した政権が続いたゆえんだと思います。

 

話を戻します。

 

いわゆる「陰謀論」好きの中には、孝明天皇と睦仁親王は殺され、

大室寅之祐が明治天皇にすり替えられた、という説を信じている人がいることでしょう。

この説の発端は、鹿島昇氏です。

 

しかし、この説は誤りです。

孝明天皇も睦仁親王も殺されていません。

 



 

当時、徳川斉昭が京都堀川にあった本圀寺の境内に秘密の御所を造営し、

そちらに孝明天皇は偽装死し、睦仁親王は大室寅之祐と入れ替わって入られました。

これをカモフラージュするために、暗殺説が流されましたが、

今となっては逆に惑わせてしまうことになっています。

この説を流したのの有力説は、岩倉具視です。

 

また、中丸薫氏が自身が堀川辰吉郎の息子で、堀川辰吉郎は大室寅之祐明治天皇の息子、

と述べているようですが、実際は堀川辰吉郎は睦仁親王の息子です。

その後、福岡で育てられ、玄洋社が守護しました。

つまり、頭山満や杉原茂丸など玄洋社の人々の活動は、

堀川辰吉郎の活躍と表裏一体だったということになります。

 



堀川辰吉郎(睦仁親王の子どもで第2代堀川殿)

 

堀川辰吉郎に丹波の人々が関わり、彼に忠誠を尽くしたことは、

丹波アヤタチの特性を考えると不思議ではありますが、

現在でも無関係ではないことに何か深遠な歴史の流れを感じます。

 

あと多くの「陰謀論」好きが勘違いしていることとして、

グラバーなどが日本の下級武士(というか実際の多くは中間・小物などの武士未満身分)を使って、

日本で革命を起こさせて、英国やユダヤが日本を牛耳ったという話が流布しています。

これも誤りです。

 

グラバーは、海外皇室ネットワークから派遣されてきた商人です。

名前が日本人のようなアーネスト・サトウなども同じく派遣されてきた人です。

フルベッキもそうです。

 

ちまたで言われるフルベッキ写真は、維新の志士が集まっているというと言われますが、

これも誤りです。

 



フルベッキ写真(フルベッキの子供の前で太刀を抱えているのは実は大室寅之祐明治天皇ではなく・・・)

 

この写真の撮影時期の一般的な説がおかしく、実際は写っている武士の多くは佐賀藩士です。

そして、明治天皇となる大室寅之祐も写っているという説がありますが、これも誤りです。

大室寅之祐とされている人物は別の高貴な血筋の方のようです。

大室寅之祐でないことは、法医学の検証によって明治天皇と顔の作りが違うことで証明されています。

 

今後、歴史上で海外の人々がどういう人物か、と考える際に参考となる要素の1つは、

その人物がスコットランド出身であったり関係があるか、という点です。

スコットランドはケルト人の国ですが、ケルト人の祖先は皇室などと同祖のようです。

古代から、こうした皇統やそれに連なる人々の世界ネットワークができていたようです。

 

ジャーディン・マセソン商会を作ったのはスコットランド人ですし、

グラバーもスコットランド人です。

あと、ダグラス・マッカーサーも祖先はスコットランド人で、

これが彼が元帥として日本にやってきたこととも繋がっています。

 

そうそう、グラバーと二人三脚で明治維新に奔走したとされ、

日本人が好きな坂本龍馬は実は大したことはありませんでした。

いわゆる「パシリ」みたいなものです。

船中八策と言われるものの内容も、別の人間が考えたものでした。

考えたのは尾崎三良という人物です。

 

そして、腰抜けと言われる徳川慶喜ですが、

実は彼は幕府をリストラする役割を担っていたので、そういうフリをしただけです。

当時幕府が保有している軍艦があれば、幕府が負けることは考えられないことでしたが、

小栗忠順や榎本武揚がうまく立ち回って幕府軍は敗れることになりました。

 

最近わかってきたことは、古代から逸話や現実離れした活躍譚を持つ人物は、

何か秘密をカモフラージュするために仕立て上げられているようです。

 

こういうことを知って、日本史や世界史を再点検すると、面白い発見が多々あります。

 

これまでのシリーズ-------------------

 


https://blogs.yahoo.co.jp/yhakrymd/70483805.html

 

政治スローガン~A. E. I. O.U.~アーエーイーオーウー記事をクリップするクリップ追加
2016/4/1(金) 午後 9:07 無題 世界史
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“合唱団の発声練習で、「アーエーイーオーウー」とやらされたものだが、これは別の観点から並べられたのか”と呟いたのは約3年半前だった(いろはにほへと~あいうえお~これも古い 2012/8/23(木))。
 
その時はYumejiさんから“発声練習の「アーエーイーオーウー」は語学練習での舌の位置や口の開きの順番・循環を示しているのだと思います。連続性を維持して滑らかに母音を変化させる。”とコメントを頂き、一件落着となった。
 
その前も後も、「アエイオウ」は日本語の問題であるとしか意識していなかった。
 
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つい最近、何か(新聞だったか?)に、
≪オーストリアのグラーツはシュタイアマルク大公フリードリッヒ三世が神聖ローマ帝国の首都としたところで、町の家々の壁には大公の座右の銘 A. E. I. O.U. が見出だされる≫というような記述を見付けて一瞬目を疑った。
 
「A. E. I. O.U.」は、ドイツ語読みでほぼ「アーエーイーオーウー」だ。どちらかが他方の起源だなどということがある筈は無い。つまり、全く他人(他語?)の空似に決まっているのだが、そもそもA. E. I. O.U. とは何だ。
 
Wikipedia に解説があった。「A. E. I.O.U.」は、皇帝フレデリック三世Frederick III (1415–93)の好んだサインであるらしい。その5文字が何を意味するのか、彼は長らく明かさなかったが、死の直前に“Alles Erdreich istÖsterreich untertan”というドイツ語の略であると告げたとか。
 
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“世界はオーストリアの支配下にある”
 


しかし、当時から既に、ラテン語による一種の政治的スローガンの略語であるとの説などが唱えられていたそうだ:
 
Austria est imperio optime unita    オーストリアは最も強固に統一されている帝国である
Austria erit in orbe ultima       オーストリアが最後に残る
Austriae est imperare orbiuniverso   オーストリアが全世界を統治する定めである。
 
いずれにしてもオーストリアの優越を宣言している。あるいは、願望と言うべきか。

今でも A. E. I.O.U. は同国の陸軍士官学校の標語であるらしい。

 

 


http://masuraoo.hatenablog.com/entries/2018/07/04

 

 

インペリアル・アイズ8月号では、
世界史を完全に塗り替えます。

補足)欧州のハプスブルク家は、日本の皇統だった。

インペリアル・アイズでは、
何も今に始まったことではないと
言われればそれまでですが、

今回のテーマはレベルが違います。

これ以上もったいぶる必要もないので、
早速、来月号のテーマをお伝えしましょう。

「ハプスブルク家の真実」

来月号で何をお伝えしてようとしているのか、
勘がいい方はすでにお分かりでしょう。

そうです。

ハプスブルク家のどこかに
日本の皇室の血が入っています。

このメルマガをお読み頂いたあとに、
「フリードリヒ3世」を検索してみてください。

ウィキペディアで結構です。

その中で、

「フリードリヒ3世の好きな言葉は
“A・E・I・O・U”で、
あらゆる物にこれを掘り込んでいた」

という記事が出てきます。

ウィキペディアでは、

“Alles Erdreich ist Österreich untertan”
(オーストリアは全世界の支配者なり)の略と言われる、

と続けていますが、

落合先生は、
ほぼ確信を持ってこう言います。

「これは言霊である」

神道にお詳しい方は、
すでにピンときていると思いますが、

フリードリヒ3世が好きな言葉、
“A・E・I・O・U”は、

日本神道の言霊のひとつ、
「ア・エ・イ・オ・ウ」
であるということです。

確かに、なぜフリードヒ3世が、
あらゆる物に文字を彫り込んだのかを
考えると、

「オーストリアは全世界の支配者なり」

という権威性の誇示よりは、

「言葉に宿ると信じられた霊的な力」

を彫り込んだと考えた方が、
納得いきますよね。

そもそも、「皇帝は権威性は欲する」という
一面的な発想しか思いが至らないとことが
浅はかではありますが、

それにしても、

日本神道に縁もゆかりもない
ハプスブルク家の皇帝が、
なぜ言霊を知っていたと考える
ことができるのか。

ハプスブルク家の真実とは?

俗流の世界史を完全に塗り替える
新たな革命の火蓋が切って落とされました。

革命の始まりは、

フィリピンと山下奉文の謎を解き明かした
落合先生に対する一本の電話から。