後集31項 用事を減らす
矜名、不若逃名趣。 練事、何如省事閒。
名(な)に矜(ほこ)るは、名(な)を逃(のが)るるの趣(おもむき)あるに若(しか)ず。 事(こと)を練(ね)るは、何(なん)ぞ事(こと)を省(はぶ)くの閒(かん)なるに如(し)かん。
名声を誇ることは、名声を受けない趣には及ばない。 仕事に慣れていくことは、仕事を減らして行く趣には及ばない。 つまり、晴れがましさから受ける喜びより、奥ゆかしさから感じる喜びの方が大きく、まずまずの生活が出来るなら、忙しく生きるより、淡々と生きる方が心は豊だろう。 言い換えると、達人とは、著名で忙しく派手な生活を余儀なくされる者ではなく、無名でもゆったりとして過不足の無い生活が出来て居る者ということになるだろう。 翻って云えば、齷齪(あくせく)する者は達人とは言えないと思う。
後集32項 悟りの境地
嗜寂者、観白雲幽石而通玄、趨栄者、見清歌妙舞而忘倦。 唯自得之士、無喧寂、無栄枯、無往非自適之天。
寂(じゃく)を嗜(たしな)む者(もの)は、白雲幽石(はくゆうせき)を観(み)て玄(げん)に通(つう)じ、栄(えい)に趨(はし)る者(もの)は、清歌妙舞(せいかみょうぶ)を見(み)て倦(う)むを忘(わす)る。 唯(ただ)、自得(じとく)の士(し)は、喧寂(けんじゃく)無(な)く、栄枯(えいこ)無(な)く、往(ゆ)くとして自適(じてき)の天(てん)に非(あら)ざるは無(な)し。
静寂を好む者は、自然な雲や石の風情を観て深遠な世界に心を奪われ、栄華を追い求める者は、清らかな歌や妙なる舞を観て心を奪われる。 ただ、自ら悟りを開いた者のみ、静寂や喧騒を超越し、随所で主となって因・縁・果が循環する世界を悠々と生きている。 つまり、達人は“あるべき様”を心得て、それを楽しんでいる。 言い換えれば、達人とは正に自然体の人を言うのだろう。
後集33項 とらわれない境地
孤雲出岫、去留一無所係。 朗鏡懸空、静躁両不相干。
孤雲(こうん)、岫(しゅう)を出(い)ずるも、去留(きょりゅう)は一(いつ)も係(かかわ)る所(ところ)なし。 朗鏡(ろうきょう)空(くう)に懸(かか)るも、静躁(せいそう)は両(ふた)つながら相(あい)干(かわか)さず。
洞窟から湧き上がる一片の雲は、宙に出た瞬間から無心にたなびく。 宙空に名月が照れば、地上の喧騒や静寂に関らず、地上を無心に照らす。 つまり、大自然は無の象徴であり、達人は泰然自若として一喜一憂しない流れる雲や名月のような生き方をしなさいということ。 言い換えれば、達人は、来る者を拒まず、去る者を追わず、淡々とすべき事を無心にしている人を指すのだろう。
後集34項 素朴な味
悠長之趣、不得於??、而得於啜菽飲水。 惆悵之懐、不生於枯寂、而生於品竹調絲。 固知濃所味常短、淡中趣独真也。
悠長(ゆうちょう)の趣(おもむき)は、??(のうげん)に得(え)ずして、菽(しゅく)の啜(すす)り水(みず)を飲(の)むに得(う)。 惆悵(ちゅうちょう)の懐(おもい)は、枯寂(こじゃく)に生(しょう)ぜずして、竹(たけ)を品(しな)し絲(いと)を調(しら)ぶるに生(しょう)ず。 固(まこと)に知(し)る、濃所(のうしょ)の味(あじわい)は常(つね)に短(みじか)く、淡中(たんちゅう)の趣(おもむき)は独(ひと)り真(まこと)なり。
ゆったりとした心というものは、まったりとした酒(美酒)を嗜(たしな)んでいては得られず、豆粥や水を啜(すす)る生活で得られる。 一喜一憂する心というものは、怒りや哀みを滅却した心には生まれず、笛を吹き琴を爪弾くよな喜びや楽しみの心に生じる。 濃厚な味わいは常に一瞬で、淡白な味わいにこそ真実があるというのは最もなことだ。 つまり、達人は濃厚な生き方をする者ではなく、淡白な生き方を選んだ者なのだろう。 言い換えれば、達人は、拘り囚われ偏よった考え方を卒業し、二律背反を両忘した思いに生きているといえる。
後集35項 あるがまま
禅宗曰、饑来喫飯倦来眠。 詩旨曰、眼前景致口頭語。 蓋極高寓於極平、至難出於至易、有意者反遠、無心者自近也。
禅宗(ぜんしゅう)に曰(いわ)く、「饑(う)え来(き)たれば飯(はん)を喫(きっ)し、倦(う)み来(き)たれば眠(ねむ)る」。 詩(し)の旨(し)に曰(いわ)く、「眼前(がんぜん)の景致(けいち)、口頭(こうとう)の語(ご)」。 蓋(けだ)し、極高(きょくこう)は極平(きょくへい)に寓(ぐう)し、至難(しなん)は至易(しい)に出(い)で、有意(うい)の者(もの)は反(かえ)って遠(とお)く、無心(むしん)の者(もの)は自(おのず)から近(ちか)きなり。
禅の教えでは、「腹が空けば飯を食い、眠ければ眠る」という自然体の生活をせよという。(景徳伝灯録30巻) 詩の教えでは、「目の前の景色は、口から出る言葉」がとかれる(王陽明の詩) 考えるに、極大は極小の中にあり、難解な事は平易な事の中に見え、考え過ぎる者はそれが解からず、無心であれば自然と解かっている。 つまり、達人は、二元論的な頭で生きるのではなく、一元論的な心で生きて生きなさいと言っている。正に「無」の境地を体現しなさいということ。 言い換えれば、達人が目指す境地は、禅が提唱する世界であり、目指すべき生活は禅が教える在り方と言えるだろう。
後集36項 何を悟るか
水流而境無声、得処喧見寂之趣。 山高而雲不碍、悟出有入無之機。
水(みず)流(なが)れて境(きょう)に声無(な)く、喧(けん)に処(しょ)して寂(じゃく)を見(み)るの趣(おもむき)を得(え)ん。 山(やま)高(たか)くして雲(くも)碍(さまた)げず、有(う)を出(い)で無(む)に入(い)るの機(き)を悟(さと)らん。
水が流れていても周辺には音がしないように、喧騒にあっても静寂を感じることは出来る。 山が高くそびえていても雲の行き来を妨げないように、存在の世界にあっても存在に左右されない「無」の境地を悟っている。 つまり、達人は「行雲流水」の真の意味を悟っているといえる。 言い換えれば、色即是空、空即是色の世界観の意味が理解し、「無」を体現出来えているということだろう。
後集37項 執着すれば楽も苦に
山林是勝地、一営恋便成市朝。 書画是雅事、一貪癡便成商賈。 蓋心無染着、欲界是仙都。 心有係恋、楽境成苦海矣。
山林(さんりん)は是(こ)れ勝地(しょうち)、一(ひと)たび営恋(えいれん)すれば、便(すなわ)と市朝(しちょう)と成(な)る。 書画(しょが)は是(こ)れ雅事(がじ)、一(ひと)たび貪癡(どんち)すれば、便(すなわ)ち商賈(しょうこ)と成る。 蓋(けだ)し、心(こころ)に染著(せんちゃく)無(な)くば、欲界(よくかい)も是(こ)れ仙都(せんと)なり。 心(こころ)に係恋(けいれん)有(あら)ば、楽境(らっきょう)も苦海(くかい)と成(な)る。
山林は素晴らしい所だが、一旦そこに住むことに拘れば市街地になってしまう。 書や絵画を愛でる事は優雅だが、一旦それに無我夢中になると商売になってしまう。 思うに、心に拘りや囚われが無ければ、俗世間でも達人が住むに相応しい理想郷となる。 心に執着する何かがあれば、安楽な場所でも、苦境となってしまう。 つまり、何事に付け必要以上に執着すれば、思い描く世界とは正反対の世界が実現してしまうということ。 言い換えれば、達人は、何事も“あるがまま”を尊重し、囚われず、拘らず自然体で生きて行くのが望ましいということ。
後集38項 環境の違いで
時当喧雑、則平日所記憶者、皆漫然忘去。 境在清寧、則夙昔所遺忘者、又恍爾現前。 可見静躁稍分、昏明頓異也。
時(とき)、喧雑(けんざつ)に当(あた)らば、則(すなわ)ち平日(へいじつ)記憶(きおく)する所(ところ)の者も、皆(みな)漫然(まんぜん)として忘(わす)れ去(さ)る。 境(きょう)、清寧(せいねい)に在(あ)らば、則(すなわ)ち夙昔(しゅくせき)遺忘(いぼう)する所(ところ)の者も、又(また)恍爾(こうじ)として前(まえ)に現(あら)わる。 見(み)るべし、静躁(せいそう)稍(やや)分(わか)るれば、昏明(こんめい)頓(とみ)に異(こと)なるを。
忙しない状態の時には、日ごろ覚えている事までも、みな忘れてしまう。 こざっぱりと清々しい状態の時には、とっくの昔に忘れてしまっていた事までもありあり思い出す。 そうして見ると、余裕が有るか、無いかではでは天地の差が出ることを覚えておくべきだ。 つまり、達人はどんな時でも心に余裕を残しておかなければならないということ。 言い換えれば、心の余裕こそ達人の幸・不幸を左右する大きな要因ということだ。
後集39項 俗塵を逃れて
蘆花被下、臥雪眠雲、保全得一窩夜気。 竹葉杯中、吟風弄月、躱離了万丈紅塵。
盧花(ろか)被(ひ)の下(もと)、雪(ゆき)に臥(ふ)し雲(くも)に眠(ねむ)れば、一窩(いっか)の夜気(やき)を保全(ほぜん)し得(う)。 竹葉(ちくよう)杯(はい)の中(なか)、風(かぜ)に吟(ぎん)じ月(つき)を弄(もてあそ)べば、万丈(ばんじょう)の紅塵(こうじん)を躱離(たり)し了(おわ)る。
粗末な布団に包まり、雪の上に横たわり、雲の中に眠れば、霊気で満ちた気を取り入れることができ、元気が保てる。 また、竹葉清なる紹興酒を飲み、清風に詩を吟じ、名月を鑑賞すれば、世俗の垢はすっかり落ちてしまう。 つまり、達人は質素、自然体で暮らしてこそ元気でいられるし、風流を楽しむことで現役時代の垢が落ちるというものだ。 言い換えれば、退役して尚、世俗を交わるのは心身の健康を危険にさらす事になります、ということ。
後集40項 華美は淡白に及ばず
袞冕行中、着一藜杖的山人、便増一段高風。 漁樵路上、著一袞衣的朝士、転添許多俗気。 固知濃不勝淡、俗不如雅也。
袞冕(こんべん)の行中(こうちゅう)、一(いつ)の藜杖(れいじょう)の山人(さんじん)を着(つ)くれば、便(すなわ)ち一段(いちだん)の高風(こうふう)を増(ま)す。 漁樵(ぎょしょう)の路上(ろじょう)、一(いつ)の袞衣(こんい)の朝士(ちょうし)を著(つ)くれば、転(うた)た許多(きょた)の俗気(ぞくき)を添(そ)う。 固(まこと)に知(し)る、濃(のう)は淡(たん)に勝(まさ)らず、俗(ぞく)は雅(が)に如(し)かざるを。
正装の官僚の列に、仙人のような貧しい身なり者が一人混じれば、一段と品格が高まるだろう。 それに反し、漁師や木こりの列に正装の官僚が一人混じれば、一段と俗気が増すだろう。 このことから、濃厚な事は淡白な事に及ばないし、俗っぽい事は高尚な事には及ばないことが解かる。 つまり、達人は淡白で高尚な心や物事との関わりを大事にしなさい。ということ。 言い換えれば、濃厚で俗っぽいことは現役に任せておきなさいということ。
後集41項 社会生活のなかで
出世之道、即在渉世中、不必絶人以逃世。 了心之功、即在尽心内、不必絶欲以灰心。
出世(しゅっせ)の道(みち)は、即(すなわ)ち世(よ)を渉(わた)る中(なか)に在(あ)り、必(かなら)ずしも人(ひと)を絶(た)ちて以(もっ)て世(よ)を逃(のが)れず。 了心(りょうしん)の功(こう)は、即(すなわ)ち心(こころ)を尽(つく)す内(うち)に在(あ)り、必(かなら)ずしも欲(ひと)を絶(た)ち以(もっ)心(こころ)を灰(はい)にせず。
迷いの世界を抜け出す方法は、取りも直さず、俗世間の中にあり、必ずしも人を避けて隠遁する必要はない。 悟りの工夫は、自分自身の本来の心の中にあり、欲望を断ち切り無味乾燥な生活をする必要はない。 つまり、達人の悟りへの道は、極めて身近にあるということ。 言い換えれば、達人の悟りは、己の本心との対面で実現するだろうということ。
後集42項 いつも静かな境地に
此身常放在閒処、栄辱得失、誰能差遺我。 此心常安在静中、是非利害、誰能瞞昧我。
此(こ)の身(み)常(つね)に閒処(かんしょ)に放在(ほか)せば、栄辱得失(えいじょくとくしつ)は、誰(だれ)か能(よ)く我(われ)を差遺(さけん)せん。 此(こ)の心(こころ)常(つね)に静中(せいちゅう)に安在(おか)せば、是非利害(ぜひりがい)は、誰(だれ)か能(よ)く我(われ)を瞞昧(まんまい)せん。
この身がいつもゆったりとした状態に置いておく事がが出来れば、一般人のいう栄光・屈辱や利害では、誰も私を追い詰める事は出来ない。 この心が常に静寂の中に安らかな状態で置いておく事が出来れば、是非の有無や利害では、誰も私を騙す事は出来ない。 つまり、達人は、たえず心身の自由を確保しておきさえすれば、見せ掛けの価値では動じなくなる。 言い換えれば、譬え達人でも、自分を縛り虐めるような状態にあれば、見せ掛けの利益に目が眩むこともあるから、身も心も絶えず自由にして置くことだろう。
後集43項 自然のなかに別天地
竹籬下、忽聞犬吠鶏鳴、恍似雲中世界。 芸窓中、雅聴蝉吟鴉噪、方知静裡乾坤。
竹籬(ちきり)の下(もと)、忽(たちま)ち犬(いぬ)吠(ほ)え鶏(とり)鳴(な)くを聞(き)けば、恍(こう)として雲中(うんちゅう)の世界(せかい)に似(に)たり。 芸窓(げいそう)の内(うち)、雅(まさ)に蝉(せみ)吟(な)き鴉(からす)噪(さわ)ぐを聴(き)けば、方(はじ)めて静裡(せいり)の乾坤(けんこん)を知(し)る。
竹垣の傍で、犬が吠え、鶏が鳴くのを聞くと、雲の中に居るような気分になる。 書斎に居て、セミが鳴き、カラスが騒ぐのを聴くと、その時はじめて静かな環境に居ることに気が付く。 つまり、恵まれた環境に気付くのは、それが乱された時なのだ。 言い換えれば、自分では達人だと思っていても、その心が乱されそうになった時、自分の心に気付くのだろう。
後集44項 足を引っぱられない
我不希栄、何憂乎利禄之香餌。 我不競進、何畏乎仕官之危機。
我(われ)栄(えい)を希(ねが)わずんば、何(なん)ぞ利祿(りろく)の香餌(こうじ)を憂(うれ)えん。 我(われ)進(すす)むを競(きそ)わずんば、何(なん)ぞ仕官(しかん)の危機(きき)を畏(おそ)れん。
私が立身出世を望まなければ、高収入という餌の誘惑に心配はしない。 私が出世競争をしなければ、役所勤めで危険な目にはあわない。 つまり、欲望には誘惑が付き物だということ。 言い換えれば、達人は要望を捨てさえすれば、安心して暮らしていけるのだ。
後集45項 環境をととのえる
??於山林泉石之閒、而塵心漸息。 夷猶於詩書図画之内、而俗気潜消。 故、君子雖不玩物喪志、亦常借境調心。
山林泉石(さんりんせんせき)の閒(かん)に??(しょうよう)せば、而(すなわ)ち塵心(じんしん)漸(ようや)く息(や)む。 詩書図画(ししょづが)の内(うち)に夷猶(いゆう)せば、而(すなわ)ち俗気(ぞくき)潜(ひそ)かに消(き)ゆ。 故(ゆえ)に君子(くんし)は、物(もの)を玩(もてあそ)びて志(こころざし)を喪(うしな)わずと雖(いえど)も、亦(また)常(つね)に境(きょう)を借(か)りて心(こころ)を調(ととの)う。
素晴らしい景観の大自然の中をのんびりと歩いていると、俗世間で心にこびり付いた埃は徐々に取れる。 風流な文化である詩、書、絵画などに親しんでいると、世俗的な気分は徐々に消えてゆく。 だから、上に立つ立派な人間は、本来は眼前の物事を左右されてはならないが、時には物事を利用して心を調えることも必要だ。 つまり、達人は物事の拘らず囚われないことを主眼としているだろうが、それを拒絶するのではなく、あるがままに受け入れ、心を調えるのに利用することが大切だということ。 言い換えれば、達人は自然体で生きているのだ。
後集46項 秋のおもむき
春日気象繁華、令人心神駘蕩。 不若秋日雲白風清、蘭芳桂馥、水天一色、上下空明、使人神骨倶清也。
春日(しゅんじつ)の気象(きしょう)は繁華(はんか)にして、人(ひと)の心神(しんしん)をして駘蕩(たいとう)ならしむ。 秋日(しゅうじつ)の雲白(くもしろ)く、風(かぜ)清(きよ)く、蘭(らん)芳(かんば)しく桂(かつら)馥(にお)い、水天一色(すいてんいっしょく)に、上下空明(じょうげくうめい)にして、人(ひと)の神骨(しんこつ)倶(とも)に清(きよ)らかならしむに若(し)かずなり。
春の天気は、万物に元気と華やさを与え、人の心に癒しとゆとりをもたらす。 秋の日和は、雲は白く、清らかな風が吹き、欄や桂が香り、水面も天空も青一色となり、月は水面に影を落としてなお輝き、人の本心までも清らかにする。 つまり、活人の活躍は春の日に、達人の達観は秋の日に喩えられ、春も良いが、秋はもっと良いという。 言い換えれば、達人は秋と冬の楽しみのような落ち着いたもので、活人は春と夏の楽しみのように溌剌としているが、秋冬の落着きには及ばないと言えるのかもしれない。
後集47項 真髄に触れる
一字不識、而有詩意者、得詩家真趣。 一偈不参、而有禅味者、悟禅教玄機。
一字識らずして、而も詩意あるは、詩家の真趣を得。 一偈参せずして、而も禅味あるは、禅教の玄機を悟る。
一字(いちじ)も知らざる、而(しか)も詩意(しい)有(あ)る者(もの)は、詩家(しか)の真趣を得る。 一偈(いちげ)も参(さんぜ)に、而(しか)も禅味(ぜんみ)有(あ)る者は、禅教(ぜんきょう)の玄機(げんき)を悟(さと)る。
文字を一事も知らないのに詩心がある人は、詩人の本当の心が理解できる。 仏の教訓を一つも教わらないのに、禅心がある者は禅の奥義を悟れる。 つまり、人間の中には“天才”という者もいて、何も教わらなくても本質から発想して挑んでも間違いがない。 言換えれば、達人の中にも天然型と人工型いるということ。
後集48項 疑心暗鬼
機動的、弓影疑為蛇蝎、寝石視為伏虎。 此中渾是殺気。 念息的、石虎可作海?、蛙声可当鼓吹、触処倶見真機。
機(き)動(うご)くは、弓影(きゅうえい)も疑(うたが)いて蛇蝎(だかつ)と為(な)し、寝石(しんせき)も視(み)て伏虎(ふっこ)と為(な)す。 此(この)中(うち)渾(すべ)て是(こ)れ殺気(さっき)なり。 念(ねん)息(や)むは、石虎(せっこ)も海?(かいおう)と作(な)し、蛙声(あせい)も鼓吹(こすい)に当(あ)つべし。 触(ふ)るる処(ところ)倶(とも)に真機(しんき)を見(み)る。
心が動揺している者は、弓の陰を見ても蛇かサソリかと疑い、横たわっている石を見て伏している虎だと見做す。 そこには全て殺気がある。 雑念を持たない者は、暴虐な虎もカモメのように手なずけ、カエルの鳴き声でも太鼓や笛のように聴くことが出来る。 そこには全てが真気がある。 つまり、達人は如何なるものからでも、本質をつかめるということ。 言換えれば、一を知れば千を見通せるということだ。
後集49項 流れにまかせて
身如不繋之舟、一任流行坎止。 心似既灰之木、何妨刀割香塗。
身(み)は繋(つな)がざるの舟(ふね)の如(ごと)く、一(いつ)に流行坎止(りゅうこうかんし)するに任(まか)す。 心(こころ)は既(すで)に灰(はい)となれる木(き)に似(に)て、何(なん)ぞ刀割香塗(とうかつこうと)を妨(さまた)げん。
身体というのは、舫い綱のとけた小舟のように、成り行き任せとなる。 心というものは、枯れてしまった木のように、俎板の上の鯉状態となる。 つまり、身体も心も、思うようにならないのが常で、下手な抵抗するより、任せ切るという勇気を持ちなさいと諭されているように思う。 言換えれば、達人は自然の摂理に逆らわず、摂理そのものになれと言われているのだろう。
後集50項 生きとし生けるもの
人情聴鴬啼則喜、聞蛙鳴則厭。 見花則思培之、遇草則欲去之。 倶是以形気用事。 若以性天視之、何者非自鳴其天機、非自暢其生意也。
人(ひと)の情(じょう)は、鴬(うぐいす)の啼(な)くを聴いて則(すなわ)ち喜(よろこ)び、蛙(かわず)の鳴(な)くを聞(き)いては則(すなわ)ち厭(いとう)。 花(はな)を見ては則(すなわ)ち之(こ)れを培(つちか)わんことを思い、草(くさ)に遇(あ)いては則(すなわ)ち之(これ)を去(さ)らんと欲(ほっ)す。 倶(とも)に是(これ)形気(けいき)を以(もっ)て事(こと)を用(もちう)るのみ。 若(も)し性天(せいてん)を以(もっ)て之(これ)を視(み)れば、何者(なにもの)か、自(おのず)から其(そ)の天機(てんき)を鳴(な)らすに非(あら)ず、自(おのず)から其(そ)の生意(せいき)を暢(の)ぶるに非(あら)ざらんや。
人情として、鶯が鳴けば喜び、蛙が鳴くと嫌気がさす。 花を観れば育てたいと思い、草が生えると抜きたいと思う。 それは、何れの場合も表面的な判断の結果である。 もし、それを大自然の法則という視点で看れば、どれも自然な現象で、正に自然に生きているだけなのだ。 つまり、達人は、自然に対し畏敬の念をもってすれば、自分の判断だけが不自然で、その他は全て自然であることに気付くだろう。 言換えれば、自分の心さえ自然に任せることが出来れば、正に悩み苦しむことは全て消滅するということ。
後集51項 肉体は滅びても
髪落歯疎、任幻形之彫謝、鳥吟花咲、識自性之真如。
髪(かみ)落(お)ち歯(は)疎(まば)らにして、幻形(げんけい)の彫識(ちょうしゃ)するに任(まか)せ、鳥(とり)吟(ぎん)じて花(はな)咲(さ)き、自性(じしょう)をして真如(しんにょ)を識(し)る。
髪も歯も抜けて、幻のような姿になるのは自然の流れで、小鳥がさえずり、花が咲けば、あるがままが真実であることが解かる。 つまり、達人は抵抗の空しさを知ってこそ達人なのかもしれない。 言換えれば、達人は無為自然を悟った人と言えるだろう。
後集52項 欲のあるなしで
欲其中者、波沸寒潭、山林不見其寂。 虚其中者、凉生酷暑、朝市不知其喧。
其(そ)の中(なか)を欲(よく)にする者(もの)は、波(なみ)、寒潭(かんたん)に沸(わ)き、山林(さんりん)もその寂(せき)を見(み)ず。 其(そ)の中(なか)を虚(きょ)にする者は、凉(りょう)、酷暑(こくしょ)に生(しょう)じ、朝市(ちょうし)も其(そ)の喧(けん)を知(し)らず。
欲張りの者は、澄んだ岸辺に波が沸き立つように、山林に居ても、その静けさを味わえない。 邪念の無い者は、猛暑に冷風が生じるように、街中に居ても、その喧騒を気に留めない。 つまり、人間は気持ちの在り方で、どこにいても不満がある者は不満、満足な者は満足ということ。 言換えれば、達人は随所で主となり、淡々としていられるのもの、ということだ。
後集53項 貧乏人の安心
多蔵者厚亡。 故知富不如貧之無慮。 高歩者疾顛。 故知貴不如賤之常安。
多(おお)く蔵(ぞう)する者(もの)は厚(あつ)く亡(うしな)う。 故(ゆえ)に知(し)る、富(とみ)は貧(まずしき)の慮(おもんぱか)り無(な)きに如(しか)ざる。 高(たか)く歩(あゆ)む者(もの)は、疾(はや)く顛(たよ)る。 故(ゆえ)に知(し)る、貴(き)は賤(いやしき)の常(つね)に安(やす)きに如(し)かざるを。
財産が多い者は、その分だけ損害を受け易い。 だから、富むより貧しい方が、心配など無くて良いことが解かる。 地位が高い者は、その分だけ倒れ易い。 だから、身分が高い者より、庶民の方が常に安心していられることが解かる。 つまり、それを理解できるのは両方を経験した者であるから、達人は地位があろうと無かろうと、富が有ろうが無かろうが、地位や財産に執着せず、いつでも庶民のように慎ましく暮らしていることだ。 言換えれば、達人は全てを捨ててしまった方が幸せに暮らせるだろう。
後集54項 風雅のたしなみ
読易暁窓、丹砂研松間之露。 譚経午案、宝磬宣竹下之風。
易(えき)を暁窓(ようそう)に読(よ)みて、丹砂(たんさ)を松間(しょうかん)の露(つゆ)に研(と)ぎ、経(きょう)を午案(ごあん)に譚りて、宝磬(ほうけい)を竹下(ちくか)の風(かぜ)に宣(の)ぶ。
日の出近くには窓辺で易経を読み、書き物に朱入れをするのに朝露で墨を磨る。 午後には机に向かい仏典を論じながら、宝磬を鳴らし竹林の風に響かせている。 つまり、達人とは正に風流なものだ。 言換えれば、達人は「もっともっとの心」を忘れて安心して生きていられる人だと言える。
後集55項 自由に生きる
花居盆内、終乏生機、鳥入籠中、便減天趣。 不若山間花鳥、錯雑成文、?翔自若、自是悠然会心。
花(はな)、盆内(ぼんない)に居(お)れば、終(つい)に生機(せいき)に乏(とぼ)しく、鳥(とり)、籠中(ろうちゅう)に入(い)らば、便(すなわ)ち天趣(てんしゅ)を減(げん)ず。 若(し)かず、山間(さんかん)の花鳥(かちょう)、錯雑(さくざつ)して文(ぶん)を成(な)し、?翔(こうしょう)することを自若(じじゃく)、自(おの)ずから是(こ)れ悠然(ゆうぜん)として会心(かいしん)する。
美しい花は、植木鉢に在れば生気が衰え、鳥は籠の中に入れられれば、自然な趣が失われる。 大自然とは、山々にある花や鳥が、自由に咲き乱れ、鳥が乱舞するように、自然に悠々の様であることを心得ているものなのだ。 つまり、達人は町の小さな家に居るより、広々とした自然の中で暮らせば、自ずと元気になり、心は穏やかになるものなのだ。 言換えれば、達人には大自然の中で自然体で暮らすことがお似合いなのだろう。
後集56項 自分にとらわれすぎる
世人只縁認得我字太真。 故多種種嗜好、種種煩悩。 前人云、不複知有我、安知物為貴。 又云、知身不是我、煩悩更何侵。 真破的之言也。
世人(せじん)、只(ただ)我(が)の字(じ)を認(みと)め得(う)ること太(はなは)だ真(しん)なるに縁(よ)る。 故(ゆえ)に種々(しゅしゅ)の嗜好(しこう)、種々(しゅじゅ)の煩悩(ぼんのう)多(おう)し。 前人(ぜんじん)云(い)う、「複(また)我(が)有(あ)るを知(し)らず、安(いずく)んぞ物(もの)の貴(とうと)しと為(な)すを知(し)らん」。 又(また)云(い)う、「身(み)は是(こ)れ我(が)ならずと知らば、煩悩(ぼんのう)更(さら)に何(なん)ぞ侵(おか)さん」と。 真(まこと)に破的(はてき)の言(げん)なり。
俗人は、兎に角「俺が、俺が」で、自分に対し余りにも執着が強い。 だから、いろいろな趣味に手を出しては煩悩に悩ませられているのだ。 昔の人も言っているが、「俺が俺がと言っている事に気付かずに自意識があるので物の大切さが解かるのだ」陶淵明第3巻「飲酒」の部分引用。 そこでまた言われていることは「身体が自分の物でなくことに気付けば、それ以上に煩悩で苦しむことは無くなる」。 何とも、的を射た言葉だろうか。 つまり、強欲は無欲に通じ、我は無に通じ、煩悩は悟りに通じているということ。 言い換えれば、達人は嘗てギラギラしていた人間の方が素晴らしい気持ちで生きてゆけるだろうか、ということだ。
後集57項 視点を変えて見る
自老視少、可以消奔馳角逐之心。 自瘁視栄、可以絶紛華靡麗之念。
老(ろう)自(よ)り少(しょう)を視(み)れば、以(もっ)て奔馳角逐(ほんちかくろう)の心(こころ)を消(け)すべし。 瘁(すい)自(よ)り栄(えい)を視(み)れば、以(もっ)て紛華靡麗(ふんかびれい)の念(ねん)を絶(た)つべし。
老人の視点で年少者をみれば、軽率な出世競争をする心を無くすことが出来る。 没落者の視点で栄華の生活をみれば、上辺だけの豪奢な生活を求める心を無くすことが出来る。 つまり、相手の視点に立って物事を眺めれば、無駄な動きというのがはっきり見えるということ。 言い換えれば、達人は、自分を空しくして、相手の身になって物事を観察し、考えることが大切だということ。
後集58項 相対主義のすすめ
人情世態、?忽万端、不宜認得太真。 堯夫云、昔日所云我、而今却是伊。 不知今日我又属後来誰。 人常作是観、便可解却胸中?矣。
人情世態(にんじょうせたい)、倏忽万端(しゅうこつばんたん)、宜(よろ)しく認(みと)め得(え)て太(はなは)だ真(しん)なるべからず。 堯夫(ぎょうふ)云(い)う、「昔日(せきじつ)我(われ)と云(い)う所(ところ)、而今(じこん)却(かえ)って是(こ)れ伊(かれ)なり。 今日(こんにち)の我(われ)は又(また)後来(こうらい)の誰(たれ)にか属(ぞく)すかを知(し)らず」。 人(ひと)、常(つね)に是(こ)の観(かん)を作(な)さば、便(すなわ)ち胸中(きょうちゅう)の?(けん)を解却(かいきゃく)すべし。
人情や世相は、真実ではなく、千変万化するもので適当に認めて、考え過ぎてはいけない。 堯夫(ぎょふ:北宗の学者で邵雍(しょうよう))は、 「昔の私の立場は今は別人のものであり、今日の私は、将来、誰に属するか解からない」と言っている。 人はいつも、このような見方をしていれば、心にある“わだかまり”は無くなるものである。 つまり、人も世間も全ては流転することを前提に考えれば楽に生きられますよということ。 言い換えれば、達人は過去に拘らず、未来に囚わらず、何事も偏らずに観るという事さえ心がけていれば心労は無くなるという事を覚えておこう。
後集59項 時には冷静、時には情熱
熱閙中、着一冷眼、便省許多苦心思。 冷落処、存一熱心、便得許多真趣味。
熱閙(ねつどう)の中(うち)に一(いつ)の冷眼(れいがん)を着(つ)くれば、便(すなわ)ち許多(きょた)の苦(く)の心思(しんし)を省(はぶ)く。 冷落(れいらく)の処(ところ)に一(いつ)の熱心(ねっしん)を存(そん)せば、便(すなわ)ち許多(きょた)の真(しん)の趣味(しゅみ)を得(う)る。
忙しさに忙殺されている時に、冷静な目で物事が見えたら、どれ程辛い思いをしなくて済むだろうか。 落ちぶれた状態の時に、情熱を以て物事に対処できたら、どれ程の醍醐味を味わえるだろうか。 つまり、達人たるものは、忙しいときにはクールに、暇になってしまった時にはホットに行動すれば万事上手く行くということだ。 言換えれば、俗世間の流れに飲まれないことが、達人を達人である所以と覚えてこう。
後集60項 楽あれば苦あり
有一楽境界、就有一不楽的相対待。 有一好光景、就有一不好的相乗除。 只是尋常家飯、素位風光、纔是個安楽的窩巣。
一(いつ)の楽境界(らっきょうかい)有(あれ)ば、就(すなわ)ち一(いつ)の不楽(ふらく)の相対(あいたい)待(たい)する有(あ)り。 一(いつ)の好光景(こうこうけい)有(あれ)ば、就(すなわ)ち一(いつ)の不好(ふこう)の相乗除(あいじょうじょ)する有(あ)り。 只(ただ)是(こ)れ尋常(じんじょう)の家飯(かはん)、素位(そい)の風光(ふうこう)のみ、纔(わず)かに是(こ)れ個(こ)の安楽(あんらく)の窩巣(かそう)なり。
「楽」があれば、その反対である「苦」は相対的な位置に同時に存在するもの。 同様に、良い環境があれば、相対的に悪い環境もあり、掛け割り足し引きすれば、何も無いことになる。 だから、日常的な食事、日常的な環境をあるがままに生きていてこそ、安住できるということ。 つまり、達人としては、世界は所詮、相対的なのだということを悟る必要がある。 言換えれば、達人は、無事是貴人、無を悟り淡々と生きてゆくのが一番よいということ。
後集61項 自然の営みのなかで
簾高敞、看青山緑水呑吐雲煙、識乾坤之自在。 竹樹扶疎、任乳燕鳴鳩送迎時序、知物我之両忘。
簾高敞(れんろうこうしょう)、青山緑水(せいざんりょくすい)の雲煙(うんえん)を呑吐(どんと)するを看(み)ては、乾坤(けんこん)の自在(じざい)なるを識(し)る。 竹樹扶疎(ちくじゅふそ)、乳燕鳴鳩(にゅうえんめいきゅう)の時序(じじょ)を送迎(そうげい)するに任(まか)せて、物我(ぶつが)の両(ふた)つながら忘(わす)るるを知(し)る。
巻き上げられた簾越しに、見る青い山々や緑なる川から雲や霧が湧き出るのを見ていると、大自然が如何に自由自在かを知る。 竹や樹木の枝葉は、燕の子育て鳩の営みに棲家を提供し、時の移り変わりに任せている様子から、物と心という相対的な関係を両方とも忘れてしまう。 つまり、達人は、大自然に身を置き、淡々と暮らしていると、自然の本質である心身一如、物心一如が解かってくるものだ。 言換えれば、大自然こそ達人の人生最後の師といえるだろう。
後集62項 生があれば死がある
知成之必敗、則求成之心、不必太堅。 知生之必死、則保生之道、不必過労。
成(せい)の必(かなら)ず敗(やぶ)るるを知(し)らば、成(せい)を求(もと)める心(こころ)、必(かなら)ずしも太(はなは)だ堅(かた)からず。 生(せい)の必(かなら)ず死(し)するを知(し)らば、生(せい)を保(たも)つ道(みち)、必(かなら)ずしも過(す)ぎて労(ろう)せず。
成功すれば必ず失敗するということを知れば、成功したいと思う気持ちは必ずしも堅固にはならないだろう。 生まれれば必ず死ぬということを知れば、生きながらえることに、必ずしも努力しすぎることはないだろう。 つまり、達人は因果の法則を知れば、何事にも拘りが無くなるということ。 言換えれば、達観するとは、輪廻を知ることだ。
後集63項 とらわれない心
古徳云、竹影掃?塵不動。 月輪穿沼水無痕。 吾儒云、水流任急境常静。 花落雖頻意自閒。 人常持此意、以応事接物、身心何等自在。
古徳(ことく)云(い)う、 「竹影(ちきえい)、?(かい)を掃(はら)って塵(ちり)動(うご)かず」。 「月輪(げつりん)、沼(ぬま)を穿(うが)って、水(みず)に痕(あと)なし」。 吾(わ)が儒(じゅ)云(い)う、 「水流(すいりゅう)、急(きゅう)に任(まか)せて、境(きょう)常(つね)に静(しず)かなり」。 「花(はな)落(お)つること頻(しき)りなりと雖(いえ)ども、意(い)自(おの)ずから閑(かん)なり」。 人(ひと)、常(つね)に此(こ)の意(い)を持(じ)して、以(もっ)て事(こと)に応(おう)じ物(もの)に接(せつ)すれば、身心(しんしん)何等(なんら)の自在(じざい)ぞ。
禅僧 雲峰志?(うんぽう・しせん)が言うには、 「階段に映った竹の影を掃除しようとしても、ゴミひとつ綺麗にならない」 「水面に差し込んだ月は、焼き訳つけられたようでも水面に痕跡を残さない」 儒者 邵擁(しょうよう)が言うには、 「水の流れが厳しくても流れに任せ切っていれば、心境は常に穏やか」 「花がどんどん散るのを見ても、自然の様子に心は穏やか」 人は常にこのような心境を維持して、物事に対処していれば、身も心も自由自在なのだ。 つまり、達人は物事の本質である「無」を悟り、心を「空」に置き、自然体で暮らしていれば、自由自在に生きてゆけるということ。 言換えれば、この世の全ては実体ではなく現象であり、心身もまた現象なのだから、とことん自然に任せて生きれば何の苦労も心配もないということ。
後集64項 自然の最高傑作
林間松韻、石上泉声、静裡聴来、識天地自然鳴佩。 草際煙光、水心雲影、閑中観去、見乾坤最上文章。
林間(りんかん)の松韻(しょういん)、石上(せきじょう)の泉声(せいせい)、静裡(せいり)に聴(き)き来(き)たって、天地自然(てんちしぜん)の鳴佩(めいはい)を識(し)る。 草際(そうさい)の煙光(えんこう)、水心(すいしん)の雲影(うんえい)、閑中(かんちゅう)に観(み)去(さ)って、乾坤最上(けんこんさいじょう)の文章(ぶんしょう)なるを見(み)る。
林から聞こえる松風の響きや岩をの間を流れる泉の音を静かに聞いていると、それが大自然が奏でる妙なる音楽であることに気付く。 野原の果てに棚引く霞や清らかな水面に映る雲の姿は、揺ったりした気持ちで眺めていれば、大自然が描き出す最上の絵画であることに気付く。 つまり、心の余裕が美しさを発見でき、その美しさは本来の心を呼び覚ましてくれるということ。 言換えれば、達人は、先ずは心の余裕をつくり、大自然に身を任せてみることが人生の仕上げでは大事だということを覚えておこう。
後集65項 人の心は始末におえない
眼看西晉之荊榛、猶矜白刄。 身属北?之狐兎、尚惜黄金。 語云、猛獣易伏、人心難降。 谿壑易?、人心難満。 信哉。
眼(め)に西晉(せししん)の荊榛(けいしん)を看(み)て、猶(なお)白刄(しらは)を矜(ほこ)る。 身(み)は北?(ほくぼう)の狐兎(こと)に属(ぞく)して、向(なお)黄金(おうごん)を惜(お)しむ。 語(ご)云(い)う、「猛獣(もうじゅう)は伏(ふ)し易すく、人心(じんしん)は降(くだ)し易(やすく)し。 谿壑(けいがく)は?(うず)め易(やす)きも、人心(じんしん)は満(みた)しがたし」。 信(しん)なるかな。
西晉(せいしん)の廃墟を目で見ながら、なおも武力に依存する。 北?(ほくぼう)の狐や兎の餌食になる体でありながら、なおも黄金に執着する。 昔話に「猛獣を捻じ伏せるのは簡単だが、人の心を屈服させるのは難しい。」 「深い谷を埋めるのは簡単だが、人の心は満たしがたい。」 正しく。 つまり、人の心という心理現象は、物理現象に比べて計り知れないくらいに扱い辛いということ。 言い換えれば、達人はその御しにくい人の心を上手に扱え得てはじめて本物の達人と言われるだろう。
後集66項 どこにいようとも
心地上無風濤、随在皆青山緑樹。 性天中有化育、触処見魚躍鳶飛。
心地(しんじ)の上(うえ)に風濤(ふうとう)無(な)くば、在(あ)るに随(したが)いて、皆(みな)青山緑樹(せいざんりょうじゅ)なり。 性天(せいてん)の中(うち)に化育(かいく)有(あ)らば、処(ところ)に触(ふ)れて、魚(うお)躍(おど)り鳶(とび)飛(と)ぶを見(み)る。
心に波風が無ければ、どこに居ても山々と緑なす木々に囲まれているよなものだ。 本性を教育できる術があれば、魚が飛び、鳶が大空を舞っていつようなものだ。 つまり、心とは何としても扱い辛いし、教育し難いものだ。 言換えれば、達人はそれを超越して、心を御す達人であることが望ましい。
後集67項 人間らしい生
峨冠大帯之士、一旦睹軽蓑小笠飄飄然逸也、未必不動其咨嗟。 長筵広席之豪、一旦遇疎簾浄几悠悠焉静也、未必不増其綣恋。 人奈何駆以火牛、誘以風馬、而不思自適其性哉。
峨冠大帯(がかんだいたい)の士(し)、一旦(いったん)、軽蓑小笠(けいさしょうぜん)の飄々然(ひょうひょうぜん)として逸(いっ)するを睹(み)れば、未(いま)だ必(かなら)ずしも其(そ)の咨嗟(しさ)を動(うご)かさずんばあらず。 長筵広席(ちょうえんこうせき)の豪(ごう)、一旦(いったん)、疎簾浄几(それんじょうき)の悠々焉(ゆうゆうえん)として静(しず)かなるに遇(あ)えば、未(いま)だ必(かなら)ずしも其(そ)の綣恋(けんれん)を増(ま)さずんばあらず。 人(ひと)、奈何(いか)んぞ駆(か)るに火牛(かぎゅう)を以(もっ)てし、誘(さそ)うに風馬(ふうば)を以(もっ)てし、而(しか)して其(そ)の性(せい)に自適(じてき)するを思(おも)わざるや。
礼装正装の公務員が、一旦、気楽なファッションでノンビリと暮らす庶民を見れば、その気楽で気ままに見える生活を羨み溜息をつかない人間はいない。 絢爛豪華な敷物の上で暮らす大富豪が、一旦、竹簾の下の簡素な机で読書などして悠々自適に過ごしている人を見ると、羨ましく思わない人間はいない。 にも拘らず何故、俗人は、尻に火が牛を蹴り立てて盛りのついた馬を呼ぶように、功を為し名を上げ富豪になることを追い求め、自分の本性に合った生き方をしようと思わないのだろうか。 つまり、全ては「縁」を媒介に現象している社会、世界では自然体で淡々と暮らしていれば、分相応の機会に廻り合い、それを自然の流れとして一心不乱に担っていれば自然体で自己を実現できるという法則を示している。 言換えれば、達人はこの因縁果の律を知り尽くし、一日を一生と思い、今すべき事に一意専心している人間だと言える。
後集68項 自在の境地に遊ぶ
魚得水逝、而相忘乎水。、 鳥乗風飛、而不知有風。 識此可以超物累、可以楽天機。
魚(うお)、水(みず)を得(え)て逝(ゆ)き、而(しか)も水(みず)相(あ)るを忘(あい・わす)る。 鳥(とり)、風(かぜ)に乗(の)りて飛(と)び、而(しか)も風(かぜ)有(あ)るを知(し)らず。 此(こ)を識(し)らば、以(もっ)て物累(ぶつるい)を超(こ)へ、以(もっ)て天機(たんき)を楽(たの)しむべし。
魚は水があるからこそ自由に泳いでいられるのに、水があることを忘れている。 鳥は風があるからこそ自由に飛びまわれるのに、風のあることを知らない。 もし、人間がこの道理である「あるがまま」を悟れれば、心の外にしか無い上辺だけの物事への拘りから解脱でき、大自然の法則を楽しめるものを。 つまり、本質とは心の内外、即ち「空」には何も無く、ただ瞬間的に現象したり消滅したりするだけの「無」の世界であることを悟れ、と言っている。 言換えれば、達人は、この宇宙の「現象あるのみ」という本質、神や仏などはあくまで方便であること知り、「本来無一物」「を掴んだ瞬間から「日々是好日」となり、「平常心是道」を実感でき、「白雲自去来」の心境である「来るもの拒まず、去るもの追わず」を体現し、環境変化を「行雲流水」とみて「一期一会」の意味に感動し、自らが率先垂範して「直心是道場」の教師となって死の瞬間まで最高に幸せな人生である「無事是貴人」を実現させて生きている人なのだ。 翻って言えば、そんな人同士が会った瞬間に「拈華微笑」という「直指人心」が現象し「見性成仏」の中身である「色不異空・空不異色・色即是空・空即是色・受想行識・亦復如是・不生不滅・不垢不浄・不増不減・・・」と続く般若心経というこの世の秘伝書の共通理解の相乗効果が実現し、宇宙の自己実現へまた一歩近付くのである。正に、その当事者こそ「達人」であり「菩薩」なのであり、その理解の過程にあるのが「活人」なのである。 まあ、難しい事を考えず「喫茶去」、お茶を召し上がれ。
後集69項 うたかたの夢
狐眠敗砌、兎走荒台、尽是当年歌舞之地。 露冷黄花、煙迷衰草、悉属旧時争戦之場。 盛衰何常、強弱安在。 念此令人心灰。
狐(きつね)は敗砌(はいせい)に眠(ねむ)り、兎(うさぎ)は荒台(こうだい)を走(はし)り、尽(ことごと)く是(こ)れ当年(とうねん)の歌舞(かぶ)の地(ち)なり。 露(つゆ)は黄花(おうか)に冷(ひ)やかで、煙(えん)は衰草(すいそう)に迷(まよ)い、悉(ことごと)く旧時(きゅうじ)の争戦(そうせん)の場(ば)に属(ぞく)す。 盛衰(せいすい)何(なん)ぞ常(つね)あらん、強弱(きょうじゃく)安(いず)くにか在(あ)る。 此(こ)れを念(おも)えば、人心(じんしん)をして灰(はい)とならしむ。
狐は打ち壊された石畳で眠り、兎は荒れ果てた遺跡を走るは、何れも華やかなりし頃には舞姫が踊った“舞姫どもの夢の跡”である。 露が菊の花を冷やし、霧は枯れ草にさまよい纏(まつ)わる“兵どもの夢の跡” である。 人の世の栄枯盛衰は何ゆえに変らず、強者、弱者は何故に存在するのか。 こんなことを考えると、人の心は冷え切った灰のようになってします。 つまり、この世の全ての栄枯盛衰は法則であり、昇れば必ず落ちるし、落ちれば必ず昇るもので、無理に昇らなければ、無理に降ろされることは無く、自然に上がれば自然に下がるだけなのだ。 言換えれば、達人とは、その原理原則を知りぬいた人間でなければならないということを覚えておこう。
後集70項 流れる雲のように
寵辱不驚、閑看庭前花開花落。 去留無意、漫随天外雲巻雲舒。
寵辱(ちょうじょくに)に驚(おど)かず、閑(しず)かに庭前(ていぜん)の花(はな)開(ひら)き花(はな)落(お)つるを看(み)る。 去留(きょりゅう)に意(い)無(な)く、漫(そぞ)ろに天外(てんがい)の雲(くも)巻(ま)き雲(くも)舒(の)ぶるに随(したが)う。
名誉や恥辱に驚く事無く、庭先の花の咲き落ちるを静かに見ている。 地位の変化などに心は動かず、ただ大空の雲の離合集散に従っている。 つまり、良い仕事が出来る達人とは、使命を達成させることに一心不乱となっている人を言う。 言換えれば、達人は正に自然体なのだ。