目に見えない世界から地球の人間を見たときの例えで、よく『舞台鑑賞』が使われていますが、この現実世界で舞台鑑賞を体験している人ってどのぐらいいるでしょうか。
実際に舞台鑑賞してみていて、なるほどな。と感情が動いているときに思いました。
それは、ハイアーセルフと自分との関係でも良いし。過去世とか、未来世とかと自分との関係、守護霊と自分との関係でも良いのだと思います。
まあ、全部一緒ですが、どこを『私』あるは『今』フォーカスしているのかというだけのことです。
息子の発表会を観に行きました。
一歳の頃から数えて今年で3回目で、それまではここまでのことは思わなかったのですが。
今年は、彼の『意識』というか、『魂』ですかね、その熱が伝ってきて、『感情』が動いたときに、そういう視点を体験しました。
彼が一所懸命に歌っている姿は、とても素晴らしかった。多くの親がそう思うように、端的に言って。
そして、それを続けている姿を観て、全く馬鹿にするわけでもなく、ただただ『なんて一所懸命なんだろう!』と楽しく笑っている自分がいました。
その歌っている姿は、他人から見たら歌っているというよりも、叫んでいるぐらいの感じの絶唱でした。
思わず笑ってしまったそのときに、
『ああ、違う次元から観た視点ってこれなんだな』『親(高次元の存在)はそういう姿を観たら嬉しい』『実は、危険なことなどない(私の言葉で言えば、大事には至らない)』ということを思いました。
また、その舞台での1人の熱は、周りも動かすというのも、観ていて面白かった。
最初、息子は歌い始められなかった。隣の子が大きな声で歌い始めて、一小節ぐらいのところで合わせて、大きな声を出した。今度は、隣の子がびっくりして、つられて更に大きな声で歌い始める。
息子と反対側の子ももちろん大きな口で歌っている。
けど、息子の周りだけ体を捩りながら、まえががみになったり、上向いたりして歌っているから動きがあって、一般的な合唱からしたら異様な様子。
『なぜ、そんなに一所懸命なんだ!!』
これは、大人(高次元)になったこちら側には分からない、分からないけど、嬉しい。
だから、思わず笑いがこぼれる。
そのあと、劇(オペレッタ)が始まります。
息子はいわゆる悪役?なのですが。
面白い。
鑑賞する側から観ると、悪とか善とかないなというのがよく分かる。
もちろん、『小さい子がやっているのだから』という前提なのですが。この思い込みを日常にちょっとだけでも適用できれば、少しだけ気持ちはわかるのではないかと。
トランプ大統領が〜とか、石破総理が〜とか。
『地球の人間がやっているのだから』とかに置き換えてみたらどうでしょうか。
一所懸命に舞台(人間や地球)の音楽(時代の流れ)や台詞(役割)に合わせて、やっているだけです。
私がやれって言われてもその役割はできない(舞台にあがれない)笑
舞台には当たり前の様に残酷なことがリズミカルに起きます。
お父さんお母さんがいなくなります。(不合理)
怪しい魔女(詐欺師)が現れます。
魔法(理不尽)をかけられます。
でも、妖精さん(奇跡)が助けてくれます。
魔女を火炙りにします。
お父さんとお母さんと会えます。
でも、話が終われば、エンドロールで魔女とも再開。
『おしまい』とみんなで言って終わります。
『いや、子供がやっていることだから(笑)!』って思ってしまえば、それまでで。
我も我も終わるとき、走馬灯を見ると言います。
その走馬灯は、たくさんの存在が観ているかも。
舞台に立っている側は、タイミング(流れ)を間違えない様に、セリフを見違えない様に『今』に一所懸命です。我々もそうです。毎日の仕事に、育児に、生活に。
それは、何度も何度も繰り返して練習(転生)してきたことであれば、尚更。
物語(人生)に終わりがあるということは、知っていても、お披露目としての『今』は、まだその瞬間は終わっていないし、本当に終わるのかどうか分からない、そういう『一瞬の今』なわけなので、一所懸命になるのです。当然です。
それで良いのです。
こうしなさいとか、こうしないと不幸になりますとか、いう人が、遠回しにもまあ、沢山いますが、それ自体は、そのひとにとってどう作用するか分からない、信じたことが良い場合もあるし、悪く作用する場合もあります。
相手は、騙すつもりだったとしても、相手は素直過ぎて聖人君子になってしまうこともあるし、騙すつもりがなくても、ださまされたと思ってしまう人もいる。童話や昔話に沢山ありますね。
何が違うとか、どちらの言葉を聞いたとしても、『自分を信じて決めたことなのか』というだけのことです。
だから、騙されても良いし、騙されたと思ってしまっても良い、それでも続けても良いし、辞めてしまって、やっぱり正しかったと思っても良い。
あとからそれを覆しても良い。ただ、途中で頭や感情が嫌がるだけです。
それは、全て『舞台(地球)』出演っていることで、まるっと空から観てもらっているわけです。
…
人間は、差し迫った設定が好きです。
『聖飢魔II』間違えた、、、『世紀末』
『恐怖の大王』『神罰』
自身が小説家や本当に人類のことを考える哲学者だったならやっぱり世界の終わりという設定を一度は思い浮かべてみてしまうのではないでしょうか。
人間が存在していることを考えることとほぼ同義なので、これは、必ずといっていいと思います。
とすると、そういう書物はもともと一つや二つではなく、かなり無限に近くこれまで存在して、たまたま残った書物の中にも例外なく『世界の終わり』について書いてあったというだけなのでは?と思うことがあります。
子供が書いた絵が、時代の淘汰で、神話になっていることもあるかも。でも、それは真実を表現しちゃっているかも。
ここまで、もし読まれた方は、私が今ある現実の情報を否定しているように感じる方もいるかもしれないですが、寧ろ逆で全く否定していません。
全てはおそらく情報としては、存在するので、可能性として、それはそれで良いかと。
それをどう自分で決めるか🟰自分の世界に適用するかということ。
否定していることがあるとすれば、深刻さぐらいでしょうか。一所懸命と深刻さは裏表みたいな部分があるので、深刻であるから一所懸命になれるということもあり、それはそれでとても尊い。
私自身、肉体を持っている以上、痛いものは痛いし、痒いものは痒い、車に当たれば基本は即死でしょう。
なので、全ての事象で受け入れられるかと言えば多分そうではない。
知っている人が死ねば、哀しいし、もしかしたら、他人から見たら、何かが壊れてしまうこともあるでしょう。
ただ、『舞台鑑賞』という視点は、やはり人間にとって大事な視点で、わかりやすい表現だとおもいます。
『からくりサーカス』という漫画が、このメタ視点があって、面白い。
味方にも敵にも、一般の友達にも、入り込めるし、それら全てが、舞台の『役割』として、終わる。