魂のことをせい…


端的な言い方で、強制とかでないのですが、ニュアンス的にはちょっと強い感じ。


強いというのは、何回も同じ言葉がくるから。


強制ではない。



現実的なルールから外れてみると


一見、バチが当たったみたいなことが現実的に起こる


このとき、ああ、あれのせいだ。


とするのが、これまでのある種3次元的な宗教的な一つの捉え方だった。


私も当然、今日もそう思った。


けれども、それは意外なところで解決が現れる。


その結果、産まれた時間でやったことは、がっつり、目に見えないことだった。


思い込みを外すというのは、やはりどうしても慣れないもので、あとで、あっそういうことという感じ。


久しぶりな。


以下、私だけの解釈。



今ここにいる感覚とは、俯瞰と現実を同時に認識している状態。


現実にいるときに見えている『障害』や『問題』らしきものは、俯瞰(多次元)の意識との間にある未解消な記憶や感情としてのエネルギーを現実(三次元)から見たとき、その間にある『鏡』に映るもの。


俯瞰の意識からは、その『障害』や『問題』は、全体の一部であり、その一部としての事実としてしかない。

モヤモヤに見えた事実が、はっきりとした事実にみあるような感じであり、モヤモヤしていたものは、自らの感情と思い込み


そういったものは、体の周りのアストラル体に鏡のようあったりする。


それらを見つめるものが、弥勒(369)としての自分なので。


現実に向き合うというのは、自らの中の神であり、向こう側との境界にいるもの。


冒頭の言葉に戻ると。


税理士試験を終わりにするときと同じような感覚に近い。


いい加減にせいと。


まあ、自我の意識としては、前から思っているし、言っていることですが。


今回は少し違う。



創造の創という字は、面白くて

つくるという意味なのですが、傷を作るつまり、破壊を創造するという意味がある。


始めから破壊は創造の一部だったわけです。


または、創造の様を可視化できるとしたら、あるものにとっては、破壊に見えるし、あるものにとっては、創造にみえるのでしょう。


傷を作るとき、そこから産まれるものがある。

その傷にフォーカスするのか、産まれ至るものにフォーカスするのから、その人次第。


それこそ、神の行為といえる。


日本的な『道』の概念「武士道」と現代の「スピリチュアル」との関係を研究するのが、一つのライフワーク。


理性というものが、必ずしも一般的な理屈や理論を指すものではない。

その理は、ただ1人自己だけの数理であって、一般化は不可能である。

その理を支えているものは、その人物の魂そのものであるから。

一般化されたそれは、一定の理論をもち、場合によっては、他人にも扱えるが、本人の沈黙の中にあるそれより、劣る。

不純物が消えたそれは、違うものである。


直感と行動


行動は、三次元的な動きであるが。

その順番は、三次元の理屈ではない。

そのほとんどは、どうなるかわからないものとなるが、結果は望んだものになっていたりする。


それは頭で考える手順ではない。



誠、真心、魂の目的。