家という考え方は、日本においては、ものというより、家族という意味合いが強い。


それは、もう暫く忘れ去られ、核家族と言われる様になった。


しかしながら、日本人の根本にある遺伝子に組み込まれたものは、そう簡単には変わらない。


この「家」という文化は、残っているのだと思います。


肉体的な繋がりからの『家』、家族は、核家族という様に、以前より分離が進み、地域においては、地区ごと繋がり「寄合」もかなり解体されてきてしまった、この文化がギリギリ残っているのは、60歳代が最後であろう。


これは、今まであったものが、良い。無くなったことが、悪い、という風に書いた文章ではなく、続きがある。


物事には、常に『良い』『悪い』が内在されている。その物事のどちらにフォーカスするのか、どう活かすのか、活かさないのか、どう認識するのか、しないのかが大切。


では、繋がりは無くなったのか。


というと、そうではない。一昔前までは、その地域から出てしまえば、その『家』から出てしまった、または、盗られてしまったという風な見方があったが、今では、いつでも連絡が取れる様になったことで、そういう見方も薄くなっている。


既存の「家」は、その地域という限界が拡張された。物理的な距離は遠くとも、意思疎通は近く、リアルになった。


これも、また、古い考えが悪い、新しい考えが良いという風に書いたわけではない。


一つの見方。


逆の見方もある精神的には寧ろ、物理的に地域の限界があり、会えないという制限があることで、生まれる、醸成される情念、愛があることも多くの物語が教えてくれている。


手紙という文化が、メールやチャットとは違った言葉そのもの以外の情報、感情を時間を超えて伝えてくれたことも、きっと覚えがあることでしょう。


話は戻り、現実的には、地域という限界が拡張されて、繋がりは、開放された。


その中で、どのような文化が育つのか、育っていくのかは、本当にこれからなのだろうと思う。


その文化の根本にあるのは、日本人の場合には、その『家』という文化の拡張であることは、変わらないだろうと私は思う。


会社という組織が、その代替として機能するかも知れない。


多くの人が言うところの、フリーランスや個人事業が増えて、それぞれ個人の時代が来るという見方もありますが、現実的な職業としてはそうだろうと思う一方、それは、言い方だけであり、本質的ではない。


個人として、それぞれが独立できるかどうかは、何をしているかではなく、どういう意思を持っているかと言うことが、先である。


フリーランスや個人事業者であっても、あるコミュニティに属することもあるかと思う。


実は、会社の様に機能しているのかも知れない。


これは、逆に組織、所謂会社に属していても同じで、どういう意思を持ってそこにいるのか。


そこが大切。


個の時代というわかりやすいワード。


「個」とは、何のか。


私は、「個」があって「家」が成り立つと思っている。

その「個」と「家」の見た目は、これまでは変わってしまっても、本質的な精神は変わらない。


物や見た目に囚われていると、変わってしまった様に思うかも知れないが、その変わってしまった物、技術をどういう精神、魂、意思で扱うのかということなのだろう。


和を以て貴しと為す


調和は、どうして調和できるのだろうか。


何もしなくても、極論そこに辿り着くなのかも知れないが。


その根本は、


それぞれが

足るを知ることであり、無知の知であり、正しさを養う、生きるを養う


以外にない。


それぞれが、それぞれのステージで、タイミングで、真心から『養う』とき、外側も養われていくのだろう。


家はどこにあるのか。


私が認識する「個」が、「家」を見つけ、建てる。

それは、見た目には誰が建てたものかも知れない、寧ろそういうものが多いだろう。


そして、自分が建てたと思っているとするならば危うい、と思える精神をもう一度、「家」の中に置いておけるならば、「養う」ことが出来るように思う。


「個」と「家」の関係は、「個」と「全体」の関係であり、その精神を現実的に落とし込んだ概念が、「家」である。


「家」は、肉体的な家族にくくらない。

もちろん、括ってもよい。


制限を設けることは、自由を設けることでもある。


そのことを弁えることができるのであれば、どうあっても自由自在である。