お前が何を知っているか。


と怒られそうだけれども。


この『死』と『文学』というものが、人生に与える非常に影響は大きい。


それが、どうしてなのか?

というのは。


『人間とは何か?』という問いに対する一つの回答の過程が示されているからです。


回答ではなく、回答の過程です。


『死』は、肉体の消滅という点において、一つの回答ですが。


生きている人間が、考える『死』は、いつまでも過程であるばかりか、実際に肉体の『死』を経験した瞬間には、その問い自体が大した意味をもたない(全てを本当な意味で理解する)状態に至るのですから、あまりに不合理で、面白いことです。


肉体を持っている限りにおいて、この『人間とは何か?』という問いは、永遠に回答に至る過程でしかないのです。


そして、『文学』は、この「哲学」の根本についてのその著者の考えをストーリーにしたものと言えます。


そのストリートの大体において、不合理、つまりは人間意識からすれば「不幸」が訪れるのですが、その具体的な現象に対して主人公がどう行動したか(回答の過程)を描くことで、読者にこの問いの一つの回答を訴えかけます。

これが、著者との会話であり、誠の『読書』というものの意義そのものであります。


このとき、どの程度「読書」に入り込めるかというのは、それぞれが『死』をどれほど「体感」または「意識」してきたかということに寄ります。


分かりやすく死にかけたことがある人ほど、『文学』のエネルギーを受けとりやすいです。


自分と著者の死についての対話は、単なる『わかる、わかる』という類の共感だけではなく、『どうしてそれでもあなたも(わたしも)生きているのか?(いこうとしているのか?)』という点において、お互いに問いかける=エネルギー交換=共鳴が起きるのです。


それぞれ死は、同じ体験ではなく、全てを分かり合えることはないのに、どうして、心が震えるのだろうということがあるかと思います。

それが、共鳴です。


また、人間が潜在的に持っている『純粋さ』の中に『悪意』も含まれています。

それを『原罪』とも言いますが。

その純粋であろうとして、無神経に、相手を傷つけてしまったり、壊してしまったことに、「罪」「悪」の意識を感じるのですが、それでも生きていかなくてはいけなかったりします。これは、私だけが生き残ってしまったというものも含まれます。(いわゆる生かされているという体感)


そういうことは、誰しも大小あるかと思います。


そうしたときに、力を与えてくれるものが、『文学』の持つ共鳴エネルギーだと言えます。


しかしながら、気をつけないと引き込まれ過ぎてしまうので、危険なものでもあります。


「これだけの人でもこういう目に遭ってそれでもいきているんだ」というストーリーに対して、

希望を得る人もいれば、絶望を感じる人もいるかもしれませんということです。


ですが、真にその著者に触れれば、運命に対する態度は、その運命を抱きしめるという以外ないということが分かります。


理不尽な相手が居たとしても、死は平等に訪れます。概ね私より先に死ぬでしょう。


これはね。


面白いことに、私にとって、『地球から宇宙を仰ぎ見ている人』と『宇宙から地球を眺めている人』が、全く同じことを言っています。


『地球から宇宙を仰ぎ見ている人』は、地球人の『知』の集合体のような方です。


『宇宙から地球を眺めている人』は、宇宙人の『知』の集合体のような方です。


それぞれの方の言葉を勝手に解釈するならば、『体当たりして生きる』というは、「本気で生きること」ですが、それは、正気ではなく『狂気』ではなくてはできないのです。


その『狂気』は、やばい人というイメージがあるかもれませんが、『宇宙人にとって常識』のような行動が、地球人にとって、そう見えているということです。


全てに対して、『本気』にならないという意識がそれです。


全てが、幻想であることを知っているからから本気にならないのです。


この『本気』にならないというのは、人間の善悪の判断に対してであって、その下にある根源的な現象の顕現に対する有難さのみにフォーカスする視点です。


だから、本当に全てに本気にならないとすると、全ては『有難い』ことしかないのです。


全てが幻想であるからこそ、限りなく幻想でないかのような体験ができる地球に対する感謝です。



さてさて、繰り返しになりますが。


運命に対する体当たりがどうして、可能であるかと言えば、それは、現世に興味がないからであり、それは、全てが幻想であることを知っているからです。


だから、根本的にはないものがあるかのように体験できることの有り難みしかないないんです。


正しく有難い。


その状態が、運命を抱きしめるということでは、ないかと思います。


そのときに、肉体が嫌だなぁと感じていてもよいのだと思います。人間意識として、嫌だなぁと思っても、その嫌だなぁを聴いてあげることが、一つ運命を抱きしめることなんだと思います。


大事なことは、矛盾している自分を許すことです。

大嫌いな人が死んで悲しんでもいいし、大好きな人が死んで、悲しまなくもいい。