このブログは、日々感じている私の内面の動きをそのままにお届けしています。
具体的なことは、できる限り感じたままに、難しいときは、何か例えを入れながら、というふうに構成しているつもりです。
特に、一見苦しいような期間において何かが掴めそうなことがあったときに書いているような感じです。
そのまま書くというのは、読まれている人からすると、非常に読みにくい文章になりますが。
私にとっては、その人の言葉で何かを掴んだようなその体験、体感する中での内面の過程が書かれているブログを読みたいという気持ちが強いため
そうしているというところがあります。
また、私にとっての瞑想に近い作業でもあります。
…
少々他人から攻撃的な言葉を向けられることが続きました。
相変わらず、そういう言葉にはあまり強くはありません。
自らの発していた何かが返ってきたと言われれば、それで終わってしまうのですが。
そう言葉にしてみたところで、本当にそのことが腑に落ちなければ、そのエネルギーの解放には至っていない(消化不良)のように感じるわけであります。(別にそのままでも良いのですが)
こうした言葉を向けられたときに感じたことは、心のシャッターが閉まるというちょっとした重み、人によっては感情が無くなるような感覚を感じることあるでしょう。
私の場合は、完全にシャットダウンしてしまうような感じです。
私の昔からの特性と言いますか。
所謂スターシードなどでもよくあることなのかもしれませんが、相手の話を聴いて、それはそうだな、そういう見方もあるなと納得してしまうことが多くあります。
それは、別の人から見れば、取ってつけたような理由で、粗探しのようなものだったりもします。
それでも、まあそういうこともあり得るなとなってしまうのです。
(地球の人間としては、ある種の障害なのかもしれない)
しかしながら、その取ってつけた理由もあり得るなと思いながらも、その相手の本質はその『感情』にあるということもわかっています。
私が対面したときに、その何らかの『感情』を表現する場になってしまったということです。
そういう意味で私がそこに現れたという意味では、私にも責任があります。
別の言い方をすると、そういう『感情』と対となる『感情』を私も持っていたということです。
私側の『感情』の根本は、『不安』というものから来ます。
どういう不安なのかというと、『こちらが一方的に何ともできないような追い詰められる』不安です。
これを相手の感情に振り返って見ますと。
相手も私が感じる前にそのような『感情』を感じていたということが推測できました。
ただ、相手からすると、私がかなり無神経に対応していることからきているようです。
つまりは、私は自分で蒔いた種を回収しているのです。
では、私はそうなることが想像できなかったか?というと、そうでもなく、実は、そういう未来も創造の範疇でしたし、そうならないためにできる限りやっていたというのも事実でした。(私から見て、相手にとってはそう見えていない、別の人からはやってくれているとも言われる)
そうなると、益々分かりにくく、微妙なことで生じていると言えます。つまり、運命なのですが。
重要なことは、このことを分析した上で、私にできることを内省することで、その不遇を受け止めて、本当の意味で私にとっての理由を掴むことにあります。
これは、あまりに悲観をしたり、相手に遜ったり、はたまた、より傲慢になることになりがちですが、これが所謂、カルマを作り上げることになりますから、私にとってはあまりよろしいことではありません。
『その不遇を受け止めて、私に取っての本当の意味というか、神(ハイヤー)の真意を掴む』
というところに至るまでが、少々人間意識として、心を閉ざしてしまうという過程に入ってしまっているのです。