現代で『知』と言えば、『知識』『知恵』という言葉最初に思い浮かぶ人が多いことでしょう。
それは、理性的にとても正しい。
では、その『知識』『知恵』という言葉についている『知』とは、果たして何でしょうか。
話が戻ってしまったような感じですね。
『知』という言葉のイメージから『知識』『知恵』というものを剥がしたとき、そこにあるものは?という問いです。
なかなかこの既存のイメージ、即ち『外側』『他人』の中にある『知』というイメージが強いがために、なかなかにこの『知』の本質は分かりにくくされています。
全ての『知』は、それぞれの『内側』にある
と言ったら、どう感じるでしょうか。
汝自身を知れ
ということでもあります。
…
これは、本質の部分から迫っているため、少々分かりにくい。
もちろん、自転車の動かし方は、『知』らなければ乗れません。
しかしながら、その自転車の構造を科学的に理解して、『知』った上で、運転している人がどれだけいるのでしょうか。
そう、『知識』はそれほど重要ではないのです。
この場合の本質の部分の話です。
…
『知』を別の言い方で言いますと、『知識』や『知恵』を用いるために『自分で考え、具体的に形にする力』のことです。
その自分の考えとしての『知』を、根源的には、自らの内側にみんな持っています。
読書をして『知識』や『知恵』を得ようとすると、ほとんどの場合、それをうまく使えないときが多いと感じたりはしないでしょうか。
それは、腑に落ちていない、経験に落とし込めていない、そう、その『知識』は著者のみの体感で、経験則だろうという『分離的諦め』から来ています。
感動が持続しないという感じにも似ています。
どこかで自分の体験ではないと
とすると、本質として大事なことは、腑に落とすことよりも、先に、その『分離的諦め』を消すことにあります。
分かりやすい言葉で言うと、
『同じ人間がやったことなのだから、わたしにもできる』
という積極的な意思。
どうしてそう思える様になるかと言いますと
その著者もまた他の偉人の業績、生き方からその『分離的諦め』を多少なりとも感じながらも、そうではないのだということを掴んだことを『知』ることでそう思える様になります。
つまりは、読書においてより大事な点は、そこに書かれた『知識』ではなく、著者がその『知識』を言語化したことの過程(生き方)にあります。
著者が、言語化する過程こそがその著者自身の『知』なのです。
相手の創造した『書物』『絵』『音楽』そのものの中に、相手の『知』が孕んでいます。
その『知』を受け取るとき、結果として『書物』の内容を記憶しているということです。
…
相手の『知』を受け取るとき、私の内側で、何か起きているか。
これは、言語化するにはだいぶ曖昧な書き方になります。
私の中の『知』の根源に近づくための手助けをしてくれている様な感覚です。
その過程を『浄化』という言い方もできます。
これは、音楽で言うと分かりやすいかもしれません。
音楽の中にも作成者の「知」が込められています。
それを音楽で感じ取る方は、特定の作者の音楽を聴いたり、演奏することで、感動する事があるかと思いますが。
その状態に近いと言えます。
私の中の『知』の根源、内なる創造性であり、魂のことですが。
その創造性の対象を見つけるためのエネルギーを与えてくれているということです。
自分が『音楽』の演奏や『著作』を書くの?!とは、必ずしもなりませんので、そこは大丈夫です。
私の『知』を取り戻すために、魂との相性として、『本』が合う人、『音楽』が合う人、『絵』が合う人、『書』が合う人、はたまた『武道』が合う人など、いろんなパターンがあると言うことです。
『知』とは、自らの『魂』であり、『創造性』のこと。
私は、それほど本を読んできたわけではありませんが、やっぱりそうなんだということが多い。
そのやっぱりそうなんだという真実らしきものは、私の中の真実だと言えます。
何とか少しは言語化できたでしょうか。