『感情』に囚われるとき、反論したり、反論する何かを探してしまいます。
そして、そういう歴史を繰り返してしまったり。
「じゃあ、どうしたらよかったの?」
『じゃあ、これからはどうする?」
という問題解決に入っていくわけですが。
まあ、これがトラップといいますか。
その解決には至らないわけですね。
今、目の前にその状況はないわけですから。
次に似たような場面が目の前に起きたときに、どうするかということしかどうにかできないし、そのときは、以前とはまた違う状況があるので、反対の判断にもなり得ます。
そのとき、そういう判断をした自分や相手を『許す』ことでしか、その執着を離すことはできないのです。
その『許す』というのが、『肚に留める』ということです。
今風に言えば、『我慢』せず、『肚に留める』という感じでしょうか。
その出来事が、実はお互い様ということに気がつくとき、「言い返す」のではなく、相手の主張を「聴く」ことで、自らの心にも問いかけ「聴く」のことができます。
もし、感情で反射的に『言い返して』しまうと、
そのボールは、お互いに受け留めることなく、宙を舞い、そのままになってしまいます。
またいつか、そのボールを拾ってきて、最悪隣にも落ちていたボールにも気づいて、大変なことになります。
本当の意味での解決を『諦める』ということなのですが、それを『相手に強要してはいけない』のです。自分の中で、それを解決しないで、嫌な気持ちや反論したい気持ちを「受け留めて」消化(浄化)することが大切です。
その過程において、ある程度『言い争い』があっても良いのかもしれません。
また、細かい話ですが、『受け留めた』後、消化の過程で言葉にするというのは、ありです。
(感情で反論することとは全く違います、本当に受け留めていれば)
『仕方がないでしょ』と言葉にするとき、それは相手からすると私に向けられていると感じることの方が明らかに多いです。
『諦める』というのは、周りや相手からどうおもわれてしまったとしてもよいということを諦めることであって、自分の中で「諦める」(受け留めて消化する)ことができないと意味はないです。
自分が本当にそれがお互い様であることを分からずに、言葉で相手に対して『諦めろ』というのは、傲慢です。(自分で受け留めていないから、相手の性にするわけです)
感情的に反論しても良いですが、それはそのまま自分に返ってきます。
逆に、自分で肚に受け留めることができれば、相手はその『沈黙』から感覚的に自らへの問いかけに変化します。
相手の感情を受けとめるのではなく、自らに生じた感情を受け留めるという感じでしょうか。
本当のところは誰にもわからないので、相手の感情と私が感じた感情は、おそらく違いポイントで発生しています。
そういった意味でも、起こってしまったことを真に解決することは出来ないのですが。
その感情は、相手のものではなく、相手との接触によって生じた現象から生じた元々私のどこかに存在した感情(エネルギー)ということになります。
なので、相手から感情をぶつけられた、それは相手のせい!という認識を続けていると、ずっと、まあ、言うなれば、被害者意識のままということになります。
もちろん法的にも倫理的にも相手が裁かれるべきことは、客観的にあるのですが、その私が感じた感情は、100%相手の感情なのか?というところは、一旦受け留めて、眺めてみる価値はあります。
その結果、やっぱり100%相手のものだという結論となるのであれば、それはそれで良いのです。