何かが分かりかけるとき
何もないことの虚無感や無価値感は、日常においてやってくる。
『何も変わらない…』
『何もできない…』
そういうときは、多くのいう『感謝をすること』や『愛』という言葉が、偽善的に聴こえてしまう。
『それは、聞き飽きたよ』
この状態は、波動でいうと、下がっている状態。
そこにある日常の中にある、非日常が映らない、そういう世界。
この言葉でさえ、嘘臭く聴こえてしまっていることでしょう。
そして、もう何度目かの
『変化のときです』
『覚醒が始まります』
『〇〇が起きます』
という言葉にうんざりします。
いよいよ、判りかけてきたのでは?
ここ、目の前にある世界は、どうでしょうか?
目の前には何もない。
私には何の技術も知識もない。
それこそ、本当に?
その無価値、虚無感は、その確かにある肉体に、魂において、本当になのでしょうか?
…
中庸であることは、上と下に繋がっているような状態、右と左でもよいですが。
その作用と反作用のバランスの状態であり、動きがないということをいうわけではありません。
それは、止まってみえて、実は細胞一つ一つ、血液一つ一つが常に動いて、それによって存在している人間と同じです。
常にそういうあらゆるバランスをとっているから、生きているわけです。
ここでいうところの『中庸』は、魂における『中庸』。
上と下が繋がっているというのは、天と地と繋がっている、あるいは宇宙と地球と繋がっている、魂の中心と外側が繋がっているということです。
原子や分子でいうと、局在化、非局在化というのようなものです。
そして、虚無感は、この非局在化、発散の状態における浮遊感のようなものと言えます。
エネルギー(波動)は、発散されて良いのですが、そのエネルギーが、内側の中心から発せられているかどうかは、とても大事です。
中心にある無限には、『初心』(初動)があります。
さてさて、今日も何やらいつも通り、終わりが分からなくなりました。
…
まだ上手く大切なところを言語化できていない感じです。
その大切な部分を何とか言葉にして残したいという初期衝動で、滅裂な言葉を綴ります。
この『心』の変化の上澄みを何とか言葉にしたいのです。
『動』
『静』なる『動』
例えかかなり変ですが、絵画における『静物』の絵を描くということ。
『止まっているが、動いている』
止まっていること、その中で、動くこと、発すること。
その止まっているのは、『中庸』に至ることなのですが。
うーん。
落ちていくときに、どう『中庸』に戻るのか。
というのは、これがいい、あれがいいと『言われたこと』をやってみても、どうもしっくりこないことが多いです。
それは、根本的には、『やらされている』からですね。
その落ちているときに、自分が発していたものに気づくには、そして、それを認めるのは、どうにも上手くいかないです。
『認めたくないから』
「素直じゃないなぁ」
他人から見たら、ただそれだけのこと。
そんな簡単なことが出来ないのが、人間なのです。
そして、本人はそれをなんかよく分からない、難しいと言って、逃げます。
他人から見たら、簡単です。
「やってみたらいい。」
その「やってみたらいい」は、他人事です。
本人は、納得してない中でやる、そうすると本人の想定された(観測した)結果になります。
『やっぱ分かんない』
なぜ、分からないんでしょうか?
本気でやってないからです。
…
分かっている人からすれば、とても下らないことで、言葉通り「下ることはない」ことです。
ですが、その方にはその方の「下ってしまう」ことがあります。多少は。
『私はもうカルマは解消した』という方は、安心してください。
まだありますよと伝えたい。
なぜなら、本当にない人はわざわざ言わないです。
さらに、言っていたとしても気にしないので、この文章を読んでもなお、感情が反応しないです。
感情が反応したとしたら、それは『終わりにしたい』のいうエゴでしょう。
まあ、ここまでの文章を読まれる方はほぼいないと思いますが。
思ったことを好き勝手書いています。
そうやって、私の中の最近の分かりかけた何かを何とか言葉にしたいのです。
…
立ち上がるときは、一瞬です。
その感覚は、非常に分かりにくい、言語化できてない時点で掴めていない。
いただいた言葉で分かった風には書けても、まだまだ自分の言葉ではない。
言語化できるまで、体得できるまで、「立ち上がる」のでしょう。
…
正道
…
無理やり前向きに捉えるという前提は、根本を歪める。
そういう事実が起きたというだけに過ぎない。