うーん。


うーん。


と。


思えば、昔からやらされたことで本気になったことはないのかもしれない。


所謂多くの人がいう、楽しみの断片をその物事の中に見つけることができたことはありますが、それもまた、そういうことかというどこか眺めているような部分がありました。


おそらくその眺めているような自分(昔の自分で言うところの、他人事のように自分をみている自分)でいるときがあるから、本気でやっているように感じでいなかったのだろうと思います。


それは、他人から見れば一所懸命にやっているように見えただろうし、また別の人からはまだまだと見えていたと思います。


そう考えると、部活動も勉学も随分と不真面目だったなぁと思ったりします。


これは、一所懸命であることを『正』とみる視点で書いています。もちろん正しいのですが。


全力という視点から観ると、いつも大体8割ぐらいでしょうか。

もう少し正確に言うと、頂上(10割)が見えたり、予想がつくと飽きてしまうと言うのがあります。

これが、不真面目と言えば、不真面目な態度とも言えます。(一般的にはそう言われているものです)


自分が集中して楽しかったことは、サッカーの試合そのものもよりも、リフティングで1000回、2000回出来ることが体感できたときとか、試験で見たことのない問題を見たときとか。


何かのためというよりは、何の役にも立たっていない瞬間だったりしました。

あと、漫画を読んでいる時とか。


今、猛烈に仕事に飽きています。


受験勉強のときも、資格試験のときも、就職活動のときも、そうだったけど。


『それ意味あります?』という問いのリフレイン



ラストアライアンスの『Letter』という逆の冒頭も

『意味なんてあるの?』という問いから始まりますが、同じ問いでも状況が違います。

彼らは、自らが恋がれた音楽をしているそのときにおいてなお、『意味なんてあるの?』という問いです。


私のは、所謂大多数が経験するような、やらされているような姿勢での体験の中での問いです。


まあ、つまりは自らがやりたいことをやってようがいまいが、『意味なんてあるの?』という問いを続くわけで、『意味なんてねぇよ!』って言いながら、今に熱中できることがあれば幸せなんだと思います。


先日テレビで、インドの修行僧が17年間ウデを上げる修行をしているというのを見ました。


インタビューアーが、『どうしてそんな修行を続けるんですか?』という質問に対して、『意味なんかない』と即答して、『神がそう言っているからやっている』と続けました。


その「神」がどの神をさすのかは分かりませんが、自神だろうなぁと感じました。


つまりは、自分がやりたいからやっていると言うことです。


何かやりたいこと、やるべきことが何かあるじゃないか?という感覚は、まあ、現代病のようなもので、私も含めてほぼすべてのひとが感染しているものでもあります。


要する『自分を大したものだ』と思っているのに、そのことにすら気づかないという状態が、そうさせています。


だから、外側の何かを、外側の誰々をみて、見事に現代文明に取り込まれていくわけです。


重要なことは、何かをすることではなく、どういった意思(意図(ベクトル)と思い(熱力、ポテンシャル))を持った自分が行動するかであり、その意思は、意識にあり、意志、志から生まれます。


あなたは何のために生まれてきたの?


というより


あなたは何を持って生まれてきたの?


という問いの方が良いのかもしれませんね。





私は何を持って生まれてきたのだろうか?


何も持ってこなかったのか?


何も持ってこなかったら、与えることができない。


体を貰ったから、貰い物だらけだな。


何も持ってこなかったとしたらいけないのか?


何も持ってきてないけどいいの?


そんなことねぇよ。


意味なんてないけど。何もないこともない。


あなたが既に貰ったように、既にあなたが与えたものがある。


与えたもの…?



つまりは、貰ったらものに気がつくことと与えたものに気がつくことは、セットだと言えます。


それが、物であっても経験であっても。


貰ったものに気がつくことが先。


あなたが貰ったものなんだろうか?



あなたが持ってきた『運命』は、何だろうか?


あなたが今、想像して創造する過去の体験の中にヒントがあります。


今行われる過去の想像と創造は、与えられたものであり、持ってきた『運命』でもあります。


前に言いましたが、あなたが経験した過去と今想像している過去は、本当に同じだろうか?過去を作り変え、共有した人との情報もまた作り変わっている可能性もまたありえます。