内側をみる
丁寧に、着実に
整理する、片付ける
鍵🔑
今日の自分の感じた違和感、やる気のなさというのは、一体なんだったのだろう。
そういう日もある。
というより、日々感じている
日々感じているものが、かなり強くでてしまったような感じ。
淡々とやる。
それはそれで大事ではあるが、そう言い聞かせながら、行う仕事に心はついていっていない。
これは、明らかである。
面白いことに、相手もまた淡々とやっているように感じる。
意味あるのか?
図書館にいってみた。
パソコンやスマホに向かう多くの人の姿をみて、人はもう機械になりたがっているのではないか?
と感じた。
図書館という場所にある過去の偉人の記したそれではなく、パソコン、スマホ、そうでないものは、また淡々と学校の試験用の問題集を解く。
ちょっと待て、学生のときのその『淡々と』、大人になってからの試験勉強のその『淡々と』とずっと同じじゃないか?
いつかは成功する。
その『いつか』のように「心のない」のその『いつか』のように。
今まだその『いつか』を使っているかのように。
それが、生きるということなの?
一体、何をやり過ごそうとしているんだろう。
生きるというのは、今しかないわけで。
これは、『淡々と』にある私のイメージを体感として感じているに過ぎない。
別のひとにとっては、『丁寧さ』『正確さ』であったりするし、そうであっても「心がある」場合や「心がない」場合がある。
私にとって、『丁寧さ』や『着実に』は、「心がある」表現となる?
外側からすると同じ『淡々と』している姿であっても、実質が異なる。
そう、実質が異なるのである。
変な言い回しだが
外側に意識が向いていると、自分の過去に意識が向き、『今』生きられなくなる。
最も『丁寧で』『着実な』ことは、「今」を『丁寧』に扱うことであり、その「今」ある人、場所を整えることだ。
自分のことで後回しにしていることはないだろうか。
その代表格が、肉体の状態。
内臓や筋肉、骨格、神経。
それから、生活環境。
前から気になっていたものの一つに手をつけた。
まずは着実な一歩ではないだろうか。
そして、やはり私にとっては書くことが内観となる。
何も解決はしていないが、エゴがおさまっていくのを感じる。
漠然としたものに言葉を与えて、そして問いをぶつけると消えていく、そういう感じだろうか。
分かりやすい言い方をすれば、
『心のない今を生きるのは嫌だ』
ということだ。
きっと、誰でもそうだろう。
どうして心のない『今』を生きてしまうのか。
肉体を持っているからこその錯覚である。
これすらも人間としての体験の一つと見れば、なかなかできるものではない。
しかしながら、ずっとそれをするために生まれたのではない。
そこから顕れる躍動を感じるために、この時代を選んだのだろう。
『淡々と』『着実に』という言葉には、積み重ねるもいうイメージも伴う場合が多いが、積み重なるかは結果論であり、「心ある今を生きた」結果として、積み上がるのであって、そこに『心』が伴わなければ、積み上がらない。
これは、自分の半生でよく分かった。
学生の頃のテスト前の勉強、大人になってからの時間勉強、就職先での仕事の仕方、その知識や経験そのものは全く積み上がっていない。
ただ、こなしてきたことから感覚的に次もできるだろうという雰囲気でこなしているに過ぎない。
その『淡々に」は、心の躍動がなかった。
真に『心ある今を生きる』とは、
『(自分が)消えてしまってとしても、灯し続けよう』という決意に似ている。
狭義の自己犠牲のことを言っているのではなく、
『ただ(自分の感じる)何かのために生きたい』という衝動のようなもの。
それが何なのかを見つめている。
その鍵は、いつも内側にある。