人は、底にいるということを認識することが結構難しい。
それは、まだ続くんじゃないか?という不安を感じてしまうから。
「底いた」というように、本当に『底』にいたかどうかは、後から見たときにそう感じるに過ぎない。
その『底』にいたと思えるようになったのは、『底』の体験をしたというのも大事なのですが、そこで、心の底から『気づき』があったか?ということの方が、肝で。
極端な話、『底』の体験でなくても良い。
また、極端な言い方をすると、心の底からの『気づき』があったときの体験を『底』だった決めているにすぎない。
ただ、この心の底からの『気づき』というのは、まだ、『底』に向かっていっていると思いんでいる自分の状態では、思いつかないところにあるので、なかなかに簡単ではない。
そこで、多くの人が言っていることが、『諦める』(surrender)、『感じ尽くす』ということが、大切になってくるのですが、『底』に向かっていると思い込んでいる状態の人間は、『いつか終わる」という思考より、『いつまで続くんだ?』という方にフォーカスしやすい。
そうすると、『諦める』『感じ尽くす』の本質である『中庸』『ニュートラル』『ZERO』の状態に至らない。
本当は、人生において、『今』しか存在しないので、テレビでやるような人生の上がり下がりのグラフというものはない。
『底』に向かって落ちているという感覚もまた、幻想であり、『今』この瞬間は、本当は『中庸』でしかないのに、その『中庸』のなせる創造性、可能性によって、『底』に向かって落ちているということを思い込んで生きることも可能となる。
『気づき』に至らない状態では、『底』へはどこまでも向かうことが出来る。
『底』は確かにあるのですが、同時にどこまでも向かい続けることもできる。
その『底』に区切りをつけるのは、自分の気づき次第となる。
失って初めて気づく体験をするのが、『底』ではない。
失わなくても、『気づき』は得られるし、失っても、尚『気づかない』ということもある。
これは、『転機』という言葉もまた同じで。
何を転機とするかは、その人次第、そのひとが決めることで。
その人が何かを感じて、心構えや何か志を立てたなら、今日見た朝日でさえもう転機となりうる。
先程の『気づき』や『転機』というものの感覚の裏にある本質は、『感謝』である。
心の底からの『気づき』は、『感謝」によってもたらされる。
『気づき』のあった人は、『気づき』があった瞬間に、そのことに『感謝』できるようになったと
言うことが多いが、それは正しくもあるが、本当は錯覚である。
なぜ、『底』で心の底から『気づき』があったのかは、日頃の心の底からの『感謝』からしか、起こり得ない。
それは、一見つながっていないように見える出来事についての感謝も含む。というより、全く関係ないと思っている日々の出来事に『気づき』感謝するということの方が、実は大事で、これらは小さな『気づき』の訓練でもある。
その『気づき』の連続があったから、『底』に向かっていると錯覚している自分に『気づき』をもたらすことができる。
小さな日々の出来事の『感謝』に気付けるか。
というのは、どれだけ、『今』の自分を救うことができるかということに直結している。
『転機』もまた、そうである。
『転機』があったとき、その出来事に関わる人に感謝をするのも正しいが、もっと多くの関わりがあって、その『転機』は支えられている。
私がその土地に生まれなければ…
大学に行かなければ…
誰々に合わなければ…
全ては、そういう可能性の連続である。
それらの『連続』を良いものどする、悪いものとするかは、自分自身である。
だから、いつでも、どんなことでも『転機』だと感じれば転機になる。
その土地に生まれたことに、心から感謝しているのか。
大学に行ったことに心から感謝しているのか。
そういう『気づき』にかかっている。
『気づき』の内容について
『気づき』は、『感謝』よってもたらされる一つ上の次元から『恩寵』である。
なので、今の時点で思い込んでいる創造や思考を超えているため、いつでも目の前にあったのに気づかないのである。
または、目の前にきても納得できないということになる。
それを受け入れるためにある程度の体験が必要という風にいうこともできる。
『気づき』の内容は、様々ですが。
その多くは、その人にとって『当たり前』のことを揺るがすことなので、最初は認識できないし、それとこれは、関係なくない?というようなことだったりします。
自分では、当たり前だと思ってやっていたことが、実は自分を傷つけることを繰り返していたり。
その人にとっての本質的な引っかかりは、本来の引っかかりとは、違う現象として代償的に問題となっていることが多いので、非常にややこしい。
ここにも、目の前のこと以外にも『感謝』できているかということの大切が表れている。
目の前のこと以外のところに、『気づき』のヒントがあり、それは『感謝』によってもたらされる。
何度も書いているが、『気づく』→『感謝』というよりも、aという出来事への『感謝』→bという出来事についての『気づき』というのが、次元を越えるということである。
aとbは、直接はつながっていないが、aへの感謝が、bの気づきとなっている。
多くの人のいう『感謝』の本質についての一つの考察でした。