肉体と魂。
肉体は魂の器。
魂の方が大きいが、地上にいるための媒体として、肉体は器である。
肉体は、動物であるので、本来は、自動調整される。
日々細胞の破壊と再生、菌の破壊と再生が繰り広げられている。
なので、放っておいて、本能のままにかさせていれば、最適化される。
しかしながら、人間は人間が作り出したものによって、その肉体が肉体として維持するための自動調整機能を破壊している。
その上、その破壊していることにすら気付かず、どうしていいかすら分からなくなって、不調が起きたときにやっと気づく。
その頃には、原因が複合的になっていて、自分独りではなかなかに厳しい状態だったりする。
だからこそ、その時点から誰かに会ったり、本を読んだりして、試して、創造していくことになる。
遅すぎるということはない。
気持ちさえ、持てれば、変な話だが、肉体的に絶望に感じたときに、真に支えることができるのは、魂を置いてない。
『健全な肉体に健全な精神が宿る』
のであるが、絶望の淵においては、その逆も起きる。
『陰極まれば、陽に転ずる』
ようなこと。
…
何を備忘したかったのか?
立ち上がるのは、いつも『魂』が先である。
どんなに肉体的に絶望に至っても、どうか。
魂から立ち上がった先人を思い出してほしいというか、探してほしい。
絶対にいるから。
ここから少しスピリチュアルになるが。
『魂』が立ち上がるとは、愛に触れること。
つまりは、自らが愛を目指すような覚悟である。
そして、愛を目指すことを思考、覚悟した瞬間に、魂は立ち上がる。
それは、か細く微かな灯のようでもあるが、
自分がただ独りで、選択した実存であるその事実が、支えている。
そして、その自分を支えてくれる過去の人間の体験が、一体化する。
その過程そのものが、愛に触れるということでもある。
今は、成っていない私に向かうこと、過去の人間に触れようとすることは、『今、私でないという点』において、同義であり、『一見不可能なようで可能なことである試み(創造)という点』においても、同義である。
あっ、非常に分かりづらい言い回しでした。
それは、愛と同一化が目的ではなく、あくまで、人間が人間であろうと思ったとき、魂が向かうベクトルが、愛であるということで、結果は問わない。
…
話がずれました。
肉体と魂の関係においては、
『健全な肉体に健全な精神が宿る』
と言われるが、これはこれで事実で。
現代では、健全な肉体を維持する本能的な機構が破壊されている。
なので、多くの人間は、不調をきたすという、破壊を自覚しないと。
その肉体としての自動調整機能としての本能を回復するというところに行きつかない。
本当は、考えなくても自動調整してくる機能をわざわざ取り戻すところから、やらないといけないのが、現代と言える。
そういう意味においては、落ちるところまで落ちているのだが、その落ちていることにすら気づかない。
それが、本当の地獄と言われるものだとは、地獄にいる人間は気づかないのである。
そういう状態が、肉体以外でも起きている。
癌が増えているその本当に理由は?
奇形が増えているその本当の理由は?
障害が増えているその本当の理由は?
それらは、複合的であり、曖昧であり、隠されている。
もちろん、わかっている人は分かっているが。
…
では、その調整機能をどうしたら元の本能に戻せるのか?
縄文や江戸時代に戻れとは言わないが。
今の人間から見て、比較的一番長く続けてい食生活を真似るということだろう。
こういう話がある。
祖母や祖父の話を聞くと、子供の時から大した栄養なんか取ってないという、でも熱出たりしなかったと。
熱が出ると頭が良くなるというぐらい、皮肉も込めてだと思うが、風邪をひくというにも、贅沢のようなものだったのかもしれない。
熱なんか出ていたとしても、測るのもないし、医者にも行けないからわからないとも言っていた。
現代人はまず、食べ過ぎているのである。
そして、栄養が低くても生きられる。
それは、生きねばと思えるかどうかにかかっている。
現代のように、既に肉体が弱っている場合はかなり厳しいかもしれない。
さらには、今はこれが足りていないとだめだという栄養素が分解され、数値化され周りからの言葉を浴びたら、そういう風になってしまうのが、人間だからだ。
…
魂と肉体において、主は魂である。
その魂の思うところを体験するための存在が肉体である。
どちらも星屑からできているので
同じであるが、エネルギー的には、魂の方が根源のエネルギーに近い位置(繋がっているという意味で)にいるので、その気になれば、肉体を維持するエネルギーを補うことも可能なように思う。
それを意図的に行う方法として、各宗教でいうところの修行があり、きっかけ(入口)が真言だったりする。
私がそう思っているだけです。