感情が動くときの対処が随分と上手くなった。


何も感じずに対応できる人が羨ましいさえ思うときもあったが、何も感じないという人もまたいないだろうと思うことができる様にもなった。


大なり小なり自分が感じている様なことを他人も感じている、ただそれが本人にとって重要で有る、また重要であったことに気づくか否か、それらの個体差が余りにも大きい。


何も感じないにも、大きく二通りある。


これから挙げるそれらは、どちらも似た様に感じるかもしれないが、全くちがう。


一つは、その人物の内側が空虚である場合。


内側とは、精神面のことで、それが空虚というのは、言葉通り空っぽで虚しい何も無いということ。


何が、空っぽで虚しいのか、と言えば、その人なりの寄るべき思想やテーマと言ったもの。


そしてそれは、今世で達成可能かどうかわからないもののこと。


それが、大なり小なり言葉にできずとも、それぞれ誰であっても持っているはずという風におもっているが、それに気づいたり、はっきりと分かるという人はもしかしたら稀なのかもしれないとも感じている。


私の言葉で言えば、

いつも『それでいいのかい?』と問う自分がいるのかどうかということ。


これは、大なり小なり誰もが持っているものと信じたい。


この声がない、聴こえないという状態を『空虚』と考えている。


何かがあっても、そのまま通り過ぎる。


もちろん感情は起こるが、また同じことで反応する。ただ単に動物的なそれに近い。


つまり、反響がないような状態ともいえる。



もう一つは、その人物の内側に相反するものが同居しそれらを受け止めている場合。


一言で言う言葉見つからなかったので、やっぱり言葉をお借りしよう。


『真空』の場合と言い直したい。


『空虚』と『真空』は、何もなさそうな感じがとても似ている。


『空虚』は、1としての固定であり、『真空』は0であり♾である。


『空虚』には、エネルギー的に躍動が全て失われてしまった。爆発があり、その爆発が伸びきった後のようなイメージと言ったら、分かりやすいかもしれない。


『真空』は、爆発が起きる前と後との瞬間であり、可能性である。


先ほどの私の言葉いうところの

『それでいいのかい?』という問う自分がいるとき、その直前の行動をしている逆方向の自分の相剋がある。


そこに『真空』が生まれる。


『その人物の内側に相反するものが同居しそれらを受け止めている場合』


と書いたのは、このことを言いたかったから。



『真空』がある場合に、どうして「何も感じないかの様に対応できるのか?」


それは、既に相反するものを受け入れているから、『空虚』のように通り過ぎるのではなく、取り込んでいるのである。


どうしても惑星の様な例えになってしまうが、惑星ができ、重力が発生するとき、遠くからの来訪者は近づくと取り込まれてしまう。


それが、自らにぶつかることになろうと、惑星はただ回り続け取り込んでいく。


それが当たり前なのである。


内側に取り込んでいくというのは、『解釈』をすることでは決してない。


誰かに取り込んだことの説明をする際には、自分なりの『解釈』をして(正当化)いるようにも感じてしまう人もいるかもしれないが、本当に取り込める人は、『解釈』はしていない。


しかしながら、私も含め『解釈』をして、取り込めてもいないのにそういうことにしてしまっている人の方が多い。


かといって、『解釈』して保留とすることが悪いわけではない。ただ、自分でも誰かの解釈をお借りしているということを弁えていれば、それで良いかと思う。


あとは、『取り込む』と言う言葉についても、もう少し、『取り込む』というは、自らの中心に引き込むということとその結果として自らに当たる、それは、自らのテーマに対してしっかりと当たるということ、しっかりと当たるともう1人の自分からの『問い』が返ってくる。


『それでいいのかい?』


この問いに対して、何度もぶち当たっていると。


段々とそれ以下のできごとに対して反応しなくなってくる。


これが、何も動じずに対応できるようになってくることの本質のように思う。


これと似た様なもので、一度体験すると2回目から動じなくなってくると言うものがあるが、これの本質も本当は自らの内側の問いとの対話の方が大事で、それがないと『空虚』となりただの慣れ、惰性となる。


つまり、その『体験』を100%とまでは言わないが、たくさん味わうことができるかどうかは、自らの内面の認識にかかっていると言える。



また、外側で起きていることについて


外側で起きていることについては、多くの人が言う通り自らが起こしているのですが、そこまでに話を飛ばしてしまうと一気にオカルトチックになってしまうので、少しだけ間の話をしてみる。


幾つか考え方がありますが。


一つは、外側で起きていることは、今の自分が認識できたことまでしか、理解できない様になっているので、認識したこと=自らの想像力=自らの創造とする考え方。


もう一つは、自らが生まれる時に持ってきた魂の複雑な重層なエネルギー(振動数)が共鳴するもの、人と会ったときに、出来事が実体化するという考え方。


また、これも2番目に近いが、魂が入る肉体、遺伝子を構成するエネルギー(周波数)との関係性においてもどんな出来事が発生する可能性があるのかというのが変わってくる、そしてそれは自分で選んでいるという考え方。


自らが創造していると言われたとき、多くの人が引っかかりを持ちやすいのは、私はそんなことしたくないとか、思ってないとか、意識したけど起きないですけど〜という感情ではないかなと。


あっ、もう一個あった。


上記の様に思う人にとって、肉体のある人間にとって、一番実践的で有効な方法なのですが。


時間軸で何かが起きたときにその出来事を全て自分ごとだと思い込むという考え方。


で、この『思い込む』というのも取り去りたい。


出来事というのは、とりあえず目の前で起きたこと。

自分ごとというのは、私のために起きた!という超絶、空前絶後の全肯定=受けとるということ。

受け取れないと思っても、言葉にしてみる、受け取る行動してみるということ。


肉体のある人間にはこれが一番分かりやすい。


このときに、受け取れないという思いが有れば、なんでだろうか?と問う。


その問いの方が正しい=自分らしいと思えば、今は受け取らなくてもいい。自分らしくないなと思って、受け取ってしまってもいい。


この「問い」というのは、自らの軸、自らがどこからきたのかということを見つける手助けをしてくれているもう1人の自分。



話戻して


外側で起きることについて

考え方、捉え方をいろいろ書いたが

それは多分全部正解だと思っている。

(少なくとも私の世界では、そう実感している)


肉体のある人間側から見て難しくしているのは、生まれてくる前のことを多くの人は忘れてきているということにある。


忘れてきているから人間に熱中できて面白いとも言える。


何もかもわかった状態で新鮮な体験ができるだろうか。


〇〇星から来たという人もいていいし。


世界の神の後継者という人もいていいし。


それは、全て自分にも当てはまっていることだから。


そういう少し人と違う部分を認識して生まれてくるというのも、面白そうだなぁとおもったり。



また、忘れていた。


感情が動いたときの対処が上手くなってきた話。


何かあったときに問いがでてくると、自分がどんだけくだらないことにこだわっているのか、何に対して抵抗しているのか、よくわかる。


わかったらもういいやってなるので、あとは対処するだけ。


もちろん、こうしたらこうなるなと悪い方向を創造する自分もでたりする。


けどね、『大事には至らない』これが最近の私のキーワード。


これは、『全ては自分のために起きている』という安心感に近い。


おっと日付を跨いだ。では、この辺で。


おやすみなさい。