魂がここにやってくるとき、一つから一つが伸びて、体に宿る。
体に宿るのだが、その『伸び』は切れてあるわけではなく、繋がっている。
なので、一つは、一つに宿りながら、全体としての一つでもある。
今、ここにいる私は、何回か生まれてきている(ことになっている)が、その魂にある経験もまた、一つの私としての経験でもあり、全体としての一つの経験でもある。
何回も繰り返している(ということになっている)という話も聞いたり、気づいたりされる方もいるが、私自身は言われても、うーんという感じがあり、またそういう景色や声も聞いたことがないので、私の世界では、そうでもないんじゃないか?という思索という想像と創造を試みている。
しかしながら、それは誰かだった頃の経験としてのエネルギーを含め生まれてきているので、紛れもなく私でもある。
その理論というのは、全体としての一つの一部が、この地球にやってくるとき、持ってくるエネルギーの層が関係している。
それを、人間は使命といい、やりたいことといい、ある人は課題というが。
全体としての一つから見たとき、それは単にそういうエネルギーが、地上に降りたということ、であって、その部分が降りることは、淀みなく、流れとしてあり得ることとして起きていると言える。
面白いのは、常に『今』しかないことによって、その『今』に存在するものの意志を尊重されているように感じる点である。
これは、有限である人としての感覚であり、全体からすれば、いずれ一つに収束することに変わりがない。
でも、間違いなく尊重されている。
一つに収束するというのは、『融合』である。
それぞれが体験した、それらを『反発』しながらの『融合』である。
『分離』という感覚は、相対的に『融合』に向かっているから感じる感覚ということもできる。
物理法則的には、宇宙が生まれた爆発したら、拡散する方向に向かう。これは物理的な人間からみると『分離』そして、エネルギーの低下、エントロピー(乱雑さ)の増大へ向かう。
そして、拡散するエネルギーがある以上、収束するエネルギーもある。
それが、非物質(目に見えない)エネルギー。
エネルギーは必ずバランスが取られている。
その非物質が、魂を構成する宇宙の根源的なエネルギーと言える。
物質は、拡散、分離へと向かう、裏で、魂(宇宙エネルギー)は、収束へ向かう。
ここに、『分離』と『融合』、『斥力』と『重力』が発生しており、その体験ができる存在が『人間』である。
物質としての「肉体」と非物質としての『魂』。
神は、神自身を体験、体感するために分離して、人間を作った。
これは、人間側から出た言葉であり、選民的にも聞こえるが。
真理の一つであると思っています。
他者(観測者)がいなければ、体験はできない。
自らが何者かは分かっていても、確認はできない。
何者かわかっていた存在が、何者かを体験するために『自らが何者かを考え、行動する体験する』それが、人間とも言える。
神を志向(信仰)することは、宇宙の彼方の根源を志向することであり、また自らの内側にもそれがあるということに気づいていく体験ではないかと思う。
人は、皆死ぬ、死という物理的な収束を迎える
エネルギーを蓄えていることができず、体は衰えていく。エントロピーの増大。
宇宙そのものの物理的な擬似体である。
そのとき、それぞれが思うこと、感じること一つ一つが、神、宇宙の体験である、
…
宇宙の消滅(収束)は、人からすれば途方もなく先の未来かもしれないし、明日かもしれない。
その中で、物理的に自由を体験できる。
そして、同時に日々の『今』を体験する感覚は、宇宙の始まりと終わりの疑似体験なのかもしれない。
「私は何度も同じことを繰り返している」というのは、人間で言えば誰かが経験した似たようなエネルギーを持ってきて、生まれてきている。そして、出会う人にあっては、その相手の中の私の可能性としてのエネルギーに合わせているので、当然何回も会っているエネルギーが響くことになる。
逆に言えば、私が持ってきているエネルギーとほぼほぼ違うエネルギー層から降りた人とは、認識することはあり得ない。
ほぼほぼという表現は、全体としては一つなので、同じ部分のエネルギーはあるが、あまりにも遠いという感じ。
人間的に言えばお互いが同じ市内にいるか、それぞれが地球と月にいるかというぐらい違う感じかな。
この理屈は、なにも『何回も繰り返しであっている』人を否定しているでも何でもなくて、どうも『何回も繰り返し会ったり、同じことをやっている』ことを苦痛に感じたり、重たく感じている人もいるようなので、違う見方を考えてみた(思索、試作)。
「何回もやって同じ目に遭っている」って、思わされなくてもいいと私は思う。
誰かに言われようが、自分で映像見ちゃっていようが。
それは、本当に今の自分に関係があるのだろうか。
今もまた同じことやっちゃっている?
いやいや、そんなことはない。
やっているとしたら、それは持ってきたエネルギーの一部が実体化したということであって、物理的には狙い通りと言える。
有難いことでもある。
実体化出来ることは、有難い。
さあ、そろそろ何言っているかわからなくなってきているのではないでしょうか。
上手くことばにできてないですね。
『私〇〇である』という認識は、人間独特の個としての見た方であり、それは人間であるということで、その体験、そう思えることそのものが有難いことなので、それはそれで良いのだと思う。
…
もう少し人間よりの視点から
同じエネルギー層からきた人間は、そのエネルギーに適した肉体に宿るというか、宿りやすいのではないかと思う。
もちろんどの肉体選んでも、何十代と先祖を辿れば、同じ人のたどり着く可能性があるので、ある程度時代や地域にズレがあっても、そのエネルギー層が地上に為したいことのいくつかは、現実化できるようになっているように思う。
現代において、その魂として持ってきたエネルギーをなんとかやっとこさ、現実化できるよう経験(カルマ)を持っている肉体に宿るというのが、もっともエキサイティングな体験なのかもしれない。
人間的に見れば、こんな人間増え過ぎて、もんだん山積な状態も『流れ』なんか!と思う人もいるでしょう。
私たちが持ってきている魂としてのエネルギーは、その生まれたタイミング、星の配置、地球のいち、地域、国、家族によって固有でありながら、その可能性は、必ずしもそれらに拘束されるものではない。
拘束されるものではないが、大体は、そのタイミングと場所を(宇宙、神の意志として)望んできているので、それらを神の意志として全て受け入れると結果として上手くいく、というのは多くのは人が言っている。
誰でも野球選手になれる可能性はあるが、それは人それぞれである。
あると言っても、1%と0.0000001%では、どう感じるかは人それぞれ。
まとまらず笑
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