旧暦の正月というものの影響か、こういう情報が出ている。


このうち『立つ』と『出』は、特に強い。


始まりというよりは、『立つ』そして『出』ということのよう。


物事の見方は、それぞれ


なにも変わっていない


毎日が新鮮


今は下がっている


いやいや、上がり始めたよ



というのことは、それぞれの認識がそのままということになる。


用心深い人というのは、ある意味でその疑い深さから、問題を見つけてくる。

実は、その問題は自分で作っているのだが。


本人にそのつもりはない。


なぜなら、誰々が良いと言っているから。

法律で良いとされているから。


そう、そう認識して、起こしていることに付随して、目の前の問題を拾っていることに気づいていない。


『出』というのは、そこから『立つ』、そうすると高さが出るので、足元そしてちょっと周りが見える。


子供の頃、『叱られそうになったとき、みんなそう言っているよ!』と言ったら、『みんなって誰かな?』って聞かれて、

『誰々ちゃんと、誰々ちゃん。』、『2人だけ?』という問答を親としたことがある。


みんなって誰ですかね。


子供は、立てるようになると、見える景色が変わる。学校に入ると関わる人が変わる。


そのときは、その『みんな』も変わってしまう。


子供の頃は、それがわからなくても、『みんなじゃないじゃん」って決めつけず、こういう対話をしておかということ自体に意味があるように思います。


時間の流れとは、そういうものであって、そういうことをわかって、『みんな』に頼ってもよいと思います。


その『みんな』の前にある前提に、認識して解釈して出会って問題を見つけている自分、全部自分だよと。


『立つ』と『出』ることになる。


立出(たちいでる)