思わぬことが起きたとき、「なんで?」という風に思ってしまうことがあります。
そりゃそうです。
『いつも』と違うわけですから。
でも、本当は『いつも』と同じ瞬間はありません。
そういうことを言葉として、そして体験としてある程度理解していても、まだ来ぬ未来のことは起こるまでわからないことになっているので、良い意味でも悪い意味でもこれまでの体験や理解を超えた『なんで?』がくることがあります。
うちの息子は、最近
『なんで、なんで、なんで…』と言います。
これは、『なんで?』と聞いているわけではなく、何かを言いたいけど、全部『なんで』になってしまうようです。
最初の頃は『うんめい、うんめい』と言ってました。
その次は、『てってって』
面白いです笑
『よいしょ、うんしょ、なんで、なんで』
全部『なんで」になってしまいます笑
赤ちゃんから見たら、毎日が、一瞬が、全て新鮮なことで、『なんで?』でしょうから。
間違ってはない笑
話がずれました。
…
『なんで?』ということが起きたとき。
それを悪いものにするか、よいものにするか?は、そのあとの捉え方次第です。
まずは、一呼吸しましょう。
例え宝くじで一億当たっても。
横隔膜を動かし、肋骨を広げて、大きく空気を入れて、吐き出す。
この行動には大きな意味があります。
神経を整えてくれます。
酸素を取り入れて、頭もすっきり。
体から意識をゼロ、ニュートラルへ持っていくのです。
その出来事の衝撃、刺激を一旦、ゼロへニュートラルへ持っていきます。
その為にまずは体で受け止めます。
そうすると『心』の方でも受け止めやすくなります。
『心』の奥の静かな場所、静寂のある場所、水の滴り落ちる大きな水面のような。
真っ白地平線でもいいですし、宇宙の星々でもいいですし。
自分だけの静寂があることを思い出す。
…
ではさて、起きた出来事を見てみましょう。
なるほどね。
そう、『なんで?』が、『なるほどね』になります。
これは、『反発』するか、『融合』するかということです。
起きたことに善悪はなくて、もしあるとするなら、出来事に対して善悪を判断している自分です。
その善悪を判断している自分を観る。
そうすると、その善悪もまた出来事、現象があることによって、存在していることがわかるし、大きな流れの中で起きていることでしかない。
現象としてあることだけで有難い。
有るのは難しいですから。
そこまで、俯瞰できれば。
あなたは、あとはその出来事をどうしますかということですが。
その俯瞰できた状態のエネルギーによって、変わってくるというように思います。
つまり、すっかり落ち着いてしまったら、もうほとんど終わってます。
『お前はもうしんでいる』
そんな感じです。
とは言いつつも、現象としての対処は必要ですから、それは自分が思うように理性的に順序立ててつくり上げればよいのかと思います。
その出来事とは、野菜や肉のような感じでしょうか。
今日は、鹿が来たから、どうしようかと思ったけど、鹿肉カレーができるなと思うのか。
いやいや、鹿は食べないから、今日は断食だな。
それか雑草でも食うか。
この『鹿肉カレー』も『断食』も『雑草』もどれもが『面白い』と思えるかどうか。
仕事に置き換えると、やったことないプロジェクトがきたとして。
①よっしゃーやったるかー
②むりーこの会社やーめよ。
③言いづらいけど断るか。
そのどれもを『楽しめる』かどうか。
断ったり、辞めたりすることを悪いことだとしているとすればそれは、誰か?それは周りじゃない
辞めてもいいし、断ってもいい。
けど『断食』か、『雑草』食べることになるかもしれないというだけのこと。
と言いつつ。
多分、①がね、1番面白いと思うよ。
自分が呼び寄せてるんだから。
そう、設定をしてきてるんだから。
それをやりたいんだから。
運命には体当たりですから。
でも、上手くやること大切です。
体当たりしながら、上手くやるのです。
どうやって上手くやるのか、それは体当たりするしかないわけです。
ただ、それを受け入れられる身体と心の状態であるか、ということで、その後の展開は変わってしまいます。
周りから見た時の起きている現象は、変わらないけど、本人から見た現象から感じるものは、あるものが、ないようにが見えるほど変わってしまいます。
人は、見たいものみます。それが他の人から見て錯覚であっても。本人とっては事実です。
身体と心が整っていると、この『静寂に入る』ということを意識しなくても、『無意識』レベルで行動してしまうから、周りからすると『なんで?』こんな大変なのにあの人楽しそうなの?ということになっていく。
整っているというのは、『柔軟性がある』ということでもあります。何度も書いてますが、ある程度歪みは当たり前のことです。それを個性とも言いますが。
その歪みがあって、その歪みも含めて、どう折り合いをつけて、柔軟性を持たせるかということ。
『正しさを養う』
養生であり、養常です。
『静寂に入る』でした。