立ち止まること。


これは、仕事をしているときも大事ですが。


自らの人生の流れを観るときにもとても大事なことです。


昔から言われている日記を書く、寝る前に1日を思い出す、明日の準備をする、感謝をして眠るという行為は、瞑想に近いと思いました。


その日、その日を『修める』というような感じでしょうか。


その身に『修める』


これは、毎日行なっている人にとっては、なんてことはない習慣なのですが、1日1日を『立ち止まる』ということをしています。


飽きっぽい宇宙人の人は、布団の中で献立を思い出してみる、今日会った人に意識的に感謝するなどでも良いかと思います。


この『立ち止まる』という行為は、あえて別の分かりやすい言い方をすれば「瞑想」状態に至ることにあるので、人によって、一瞬だったり、(というより常に瞑想状態の人もいる)、あれこれ余分な感情が出てきたりしてしまったり様々です。


あれこれ考えてしまうのでしたら、文字にして記述し、自分から『感情を分離』するのが良いように思います。


文字を書き続けているとゲシュタルト崩壊するように、感情に対してもあれっ、なんでこんなことでイライラしてんだっけ?となる瞬間があります。


恨みつらみを文字化(現象化)し続けることは、お勧めしません。それは、そのことを「祈っている」と大差ないからです。


言葉にするとき、イライラを聴いてくれた相手に感謝を告げるように、相手への一定の理解、感謝で締めくくると少し『修める』ことができるように思います。


出会ってしまったことには、今は感謝出来なくても、私のためになることしか起きないので、いづれ感謝することになります。


私のためでなければ、この出来事は起きないのです。言葉の表現では、ややこしいですね。


今という連続の中で、いづれその出来事すらなかった世界にシフトすることもできる(忘れてしまう)のに、そのことを繋ぎ止めている行為は、別の人からすると、『どんだけ好っきやねん!』という風にも見えたりします。


話がそれました笑笑



ということで

『立ち止まる』『停滞』という言葉のエネルギーの幅を変えてみようという試みでした。


エネルギーは、拡大と収縮がありますので、大きな流れから捉えられないと『停滞』しているようにも感じます。