言葉は、制限をしながら表現するものであり、そうでなければ、誰かに何かを伝えることはできない。


言葉とは、人に何かを伝えるものとして一般的に言われている。


では、本当にそうなのか?


言葉は、何かを伝えるためであると言いながら、その選ぶ言葉そのものは、発した人物の定義の連続であり、伝わるかは、伝えることとはまた別の問題だと言わざるを得ない。


そうすると、何かを伝えるために発した言葉は、他人のためのようで、実は全部自分のためではないかとさえ思える。


自分が定義をした言葉を誰かに伝えたとき、その反応によって、やっとその言葉の意味を知ることになるから。


その反応を繰り返しておこなっている作業は、自らの言葉の研磨であり、その内側にある自らの意志の確認である。


重要なことは、他人がどう反応したか?ではなく、その反応をみてどう感じたか?ということにある。


同じようで、少し違う。


言葉を発する→相手が怒る→なんで?

言葉を発する→相手が怒る→なるほど


相手が怒った時に説明をしているかどうかというよりも、相手を尊重できるかということ。


説明を求めているのは、俺とは違うというエゴであるので、分からない、分からないけど、なるほどなと思えるかどうか。


ここに引っかかりがある、分からないことをわかろうとすることというのは、社会的には大事なことですが、ものの見事に自分の癖を現象化してくれているとも言える。


自分の中に引っかかった理由なければ、引っかからないからだ。


で、本題ですが。


言葉というのは、昔の言い方で言うと、『はじめに言葉(ロゴス)ありき』というように、人間の人間たる所以、神を認識しようとしたときに生じたものと考えられる。


つまり、言葉が神。


これは別の言い方もできる。


言葉があることで、思考することができ、物事を分離して、考えることができることになった。


その対象は、自らの体、意識へと及び、思想、哲学、人間とは何かを考えられるようになった。


その過程で人間を生み出した何者かがいるということに気づく。


それを自然、宇宙というマクロへ向けることと同時に、細胞、遺伝子に向けていくとき、それらが同じ構造や法則に基づいていると気づく。


何者かはどこにいるのか。


答えはすぐにでる。


そういうことを表現できる言葉とは、やはりそのものが神なのだと思う。


そして、それを扱う人もそれぞれ神の一部であり、神の本体でもある。


言葉は、外側に向けるものではなく、内側に響かせるもののように思う。


その結果、外側にも伝わるものがある。


何かを感じたとき内側に響かせてから、発するというのは、腰を入れてからものを持つというのと同じぐらい大切なことのように今感じた。


外側に向けたときは、ある一定の方向にのみであるが、内側に響かせたときは、全方向及ぶ。


まずは自らの中心に座すること。


その中心は、神聖な場所。