怒りは、願望の現れでもあるようです。
こうしてほしい。あーしてほしい。
というのは、期待によるものですが。
それが裏切られると怒りに変わります。
期待は、願望に含まれるのかな。
自分に対する期待。誰かに対する期待。
どちらも上手くいかないと、えーってなります。
願望というより、期待をしているから。
怒りに変わってしまうのかもしれません。
言葉遊びのようですが。
(わたしの言葉でいうところの)期待と言うと、『意識の位置』が、外側に向いていることのようです。
外側とは、「自分の世界」ではなく、「世界の中の自分」という『意識の位置』です。
「世界の中の自分」という『意識の位置』において、「期待」するということは、自分に対するものだとしきり言っていても、実は、『世界』に期待しているということになります。
だから、対極としての『裏切り』が起こると許容できないということが起きます。
ては、どうするか。
『自分の世界』という「意識の位置」にい続けることができれば、その『期待』に対する『裏切り』も全てセットで、許容ができます。
『自己責任』という言い方でもあります。
「意識の位置」を変える方法は、『自己責任』と表したように、まずは『自分』に意識をおくことです。
ここのまず『自分』に意識をおくというのは、『主導権』は自分だということ、別の言い方で言うと、『自分軸』を持つと言うことでもあります。
もう少し、深く行きます。
『自分軸』『自己責任』『自分の世界』というのは、『自己中心』になることですが、【エゴ】の『中心』になることではなく、【魂】や【心】の『中心』になることです。
どうやったら?どうやったら?
うーん。
多くの方が言っていますが、自らでその【魂】【心】の声をたどり、繋がるしか方法はありません。
多分ですが、誰かに繋いでもらっても、本当?って思うのではないかと。
その声を自分で聴くところをやりたい魂も多いのではないでしょうか。
もちろん、自然にできるようになりますし、それでいいのです。
ここでも、『自分』というのが、出てきますね。
…
『自分から発する』
この発するというのは、思いとか、願望のことです。
同時に。
『受け取る』という表現もあります。
直観やインスピレーションのことです。
どちらが先か?というのは、
『自分から発する』というのが、先のようです。
ややこしい言い方になってしまいますが、『発する方の自分』ももちろん、与えられたものですから、向こうから来たものが、先という見方もありますが、向こう側もこちら(自分)も創造者として、同一のエネルギーを持っているとすると、そこに後先はないとも言えます。
そうすると、創造者としての『発する』が先になります。
我々が、『受け取る』直観やインスピレーションや実物は、そのエネルギー状態が振動の粗い物質よりか細かいものかという違いであり、その元となるエネルギーは、外側に沢山あります。
この目の前にある物と物の間も全て宇宙空間であり、宇宙のエネルギーで満たされています。
そう、満たされているんです。
そこに「自分から発する」と共鳴して、現象化が起こります。
雲ができる仕組みは、核となる塵としてのきっかけがあって、雲が創造されます。
その「塵」としてのきっかけが、『自分から発する」ということです。
『自分から発する』とき、その高い純度(より魂の本心に近い)で発することというのは、今生きているテーマになっている人もいるように思います。
この『自分から発する』というのは、かつてのカルマ(よくないとされる意味で)を繰り返していた時代においても同様に作用しており、カルマに巻き込まれたエゴとしての自分から発せられたことも繰り返し、現象化していたようです。
エゴから発せられたものが、必ずしもカルマということではありませんが、外側に意識を持ってかられている状態での『自分から発する』という創造は、魂の本心からの創造からは少し遠回りであるように思います。
もちろん、その遠回りも意味があって遠回りしているので、魂からみたら本心とも言えますので、間違いではありませんね。
それらも含めて間違いなく創造の過程だったというのは、ある程度創造を意図的にできるようになったときに、あーそうだった、これも必要だったと腑に落ちるように思います。
…
ここで、冒頭の『怒り』の話に戻ります。
その『怒り』とは、何だったのか。意味はあるのか。
『怒り』は、まず魂が感じていることではないということてすね。
魂は、今も創造の過程にあり、オールオーケー。
すると、この『怒り』もまたエゴとしての自分が感じていることだとわかります。
エゴが、『世界の中にいる自分』という『意識の位置』から『外側』に向けて、『自分から発した』結果としての現象に対して、期待が裏切られたり、願望と違ったりしたので、『怒り』を感じていたということです。
こういうと、意味のないことを繰り返したい聴こえてしまいますので、もう一度整理します。
例えで
雲ができるのには、核となる『塵』が必要です。
その核は、魂の本心にあるから『核』になりあるわけです。
そして、全ての現象は、創造の過程であるということから推測すると
『自分から発する』ことの純度で100%エゴというのはないということです。
魂の本心から発せられたときに、その近くにあるエゴのエネルギーが被さったときに、限りなく違うものになってしまって、発せられてしまうこともあるし、エゴの影響が少なければ、本心がそのまま発せられて、そのままのことが現象化することもあるということです。
ですから、『怒り』もまた、自分の本心を聴くことのヒントになりえるのです。
全てに無駄がないという意味は、そこに限りなく埋まってしまったとしても、形が違って現象となっていても、本心の一部を創造しているし、そういった小さな小さな創造を繰り返している『創造の過程』にいるからです。
と言っても、私がそうでしたが、そもそも『怒り』を貯めていたことにさえ、気づかないという人もいます。
ここがなかなかどうしたものかと思ってしまうのですが、それも後からすれば、創造の過程だったとわかるし、それは後になってから出ないとわからないようです。
『怒り』の中にある魂の願望を聴くというのは、痛いところを突かれ『怒り』を感じているので、なかなか辿り着けないように感じてしまうのですが、そこを自分で見つめる以外に方法はないようです。
もちろん見つけやすくするために、体を整えたり、心地よい場所にいったり、瞑想したりするというのはとても有効です。
ですが、あくまで、エゴも含めて全ては『自分』であるので、言葉わけてきましたが、エゴも『自分』であるという『意識の位置』が大事なようです。
エゴだ、エゴだと分けようとするのも、エゴだからです。
…
今、BUMP OF CHICKENの『夢の飼い主』という曲を思い出しました。
結構前の曲で、車輪の唄のカップリングだから、15年ぐらいかな。
おそらく、羨望や期待というのは、願望が変わった姿は、一つではないかなと思いました。
変わり果てた姿だったりするので、目の前の誰かがやっていることをそのものが、自分の願望ではなかったりします。
なので、その大元の魂の願望の声を聞きに、エゴを聴きつつ、深く耳を傾けて、心の声を振動を確かめる。
そうすると、ただ単に自分も創造したい〜ってエネルギーだったりもします。
でも、もっと細かいところのエネルギー観ていると、その現象にヒントがあったりします。
…
あっ、
『自分から発する』そのあとの話です。
『自分から発する』と、心から広がります。
これは、自分を中心に広がりますが。
自分を中心に全体に広がります。
ちょっと先の宇宙空間に触れて、そこにある宇宙エネルギーに触れて、震えて形や出会いを作ります。
そして、その発生が近づくと前触れ、振動として心に届きます。
これが、直観やインスピレーションとも言われているものではないかと思います。
現実化されている未来からのメッセージとも言えます。
今日はここまで。
ブログを書くことは、瞑想に似ています。
書いていると、落ち着いてくる、『意識の位置』が変わります。