何を感じるか?
ということが、大事なのですが。
エゴの方が反応して、それが本当のわたしの声と勘違いしてしまうと。
永遠に別のものを想像し、創造することになります。
その出来事が、今起きているのであれば、そのプロセスは、その人にとって必要なものというのが、多くの人の言い方になります。
私もそう思います。
その必要なという部分ですが、起こっているからそれが必然であるので、必要という言葉の言い方になります。
別の言い方で言えば、人は今しか生きていないので、その「今」とは「必ず」(間違いなく)、「要」(かなめ)になっています。
良い悪いはなく。
ただ、宇宙や高次の世界、集合意識から観ると、現実化されることは、全て尊いことでもあるので、常に今自分の『最善』が起きているという言い方もあります。
また、『快適』という言い方もあります。
この辺りの言葉を最近整理してました。
やはりそれぞれが、観ている視点の多さというか、高さというか、広さというか、フォーカスする部分というか、そういうのが違うし、表示された『言葉』についての意味が違いすぎるので、エゴの声と心の声を分けて聴かないと、混乱するし、誤解すると思います。
エゴの声と心の声を分けるというのは、自分が未だ気づいてないことについては、少々時間がかかることもあります。
エゴの声は、何度となく、心の声のフリをして、違う回答を迫ってきますから。
また、エゴの言葉は、知っていることに基づいて判断をしますし、言葉にしてきます。
さらに、例えば『無知の知』という言葉を知れば、この言葉を勝手に解釈して、結論をだそうとします。
これは、引っかかりやすい。
だいぶ分かりにくい内容になってきました。
…
私が感じているところでは。
目の前の嫌なことは、そのものに感情が刺激されるが、それ自体に原因があるわけではなく、ちょっと前に自分が発したものが、違う形で現れているということ。
その発したものが何なのか?を辿る観察するということだろうと思います。
幸せなことは納得しやすい、納得しやすいから受け入れやすいと思います。
例えば、家族が近くにいて嬉しいなぁ〜
すると、家族から連絡あったり、また疎遠になっていた友達から連絡あったり。
これは、凄く受け取りやすいと思います。
家族が近くにいるということを認めているということです。
これは、実際に近くにいるかどうかは関係ありません。
わたしの例でいえば、
わたしの実家は何県か離れていますが、わたしの心の距離としては実は近いと思ってます。
だから、会えなくても幸せなんです。
もちろん、会えたらもっと嬉しいですが。
ちょっと話がずれました。
伝えたかったのは、
家族が近くにいて嬉しい→疎遠になった友達から連絡がある。→嬉しい。
家族が近くにいる幸せから、友達もいた!という幸せの「今」を体験するということもあるということです。
…
目の前に起きる嫌だなぁと思うことも、これと同じように、
『その発する思いに近いことが、別の形で現実化している』
ことがあります。
『これは、何を発したからなのか?』
これが、重要なんですね。
だから、相手に求めても返ってきません笑
寧ろ、相手がどういう反応をしているのか?
を観察していると
実は、自分が目の前と違うことについて、目の前の相手と同じことをしているという、すっごく観たくないものに気がつきます笑笑
すっごく観たくないものというのが、ポイントです。
もし、そういう人たちが目の前にいたら、おんなじ仲間たちです笑
これを神様、ハイアー視点でみられるようになると、
なんと慈悲深いことか!となります。
だって、常に目の前に答えはあるんですから。
これが、多くの方が、目の前を『最善』であるということのもう一つの理由です。
『気づく』ということは、『解決』ではないです。
『解決』しようとすると、『気づく』からは遠のきます。
しかしながら、一番観たくないものを認めると、少しずつ反転します。
嫌なことを発した点を「ゼロ」つまり、発していない状態へとすることになるからです。
これは、過去に行ったとかそういうことではないです。
わたしが作った過去も未来も『今』にあるからです。
少しずつと書いたのは、人によっては、『そのように発してしまうこと』即ち、思考の癖がついてしまっていたりするので、そのエゴを眺めるのに少し時間を要るのかも知れませんということです。
今は、こんなところかな。
こうして言葉にすると、『腑に落ち』ます。
ちなみに、わたしの場合は、体のこと、アトピーです。
この辺のことはまたわかったことを書いてみようと思います。