相変わらずややこしいことを思っています。
本能と魂の関係
自由であること
素直であること
これらのことは、何回も書いてみた、思索もしてきました。
それでもうまく言葉にできない。
表現する言葉の制限があるように感じてしまうときがあります。
そういうものであって、それでいいのですが。
言葉には、常に前提があります。
その前提が、自分と相手とで違うのです。
分かりやすく言うと、自由を発言している人を見て、自由でないと感じたり、愛を発言している人をみて、愛を感じなかったり。
ややこしい言い方になってしまいますが、自由というものが制限の中にあって感じられるということを体感として分かっているとその制限すら自由であったということに気がつく、その制限の設定すらも自由だったということですね。
それが、自由なんだと思います。
愛という言葉は、全てものが広義の愛であるので、それぞれがどういった理解の前提にあるか、によって、受け取り方に違いが出ます。で、その受け取り方の違いそのものが、愛なのですが。
人間関係を想像する人にとっては、そうであるし、自然との関係で想像する人にとっては、そうであるし、宇宙との関係で想像する人にとっては、そうであると言えます。
愛のある言葉というのは、言葉そのものに価値があるというより、その言葉に『愛』を込めているのか、というのが、無意識に伝わってしまうので、その部分が本体。
子供の躾において、『泣くな!』と言ったとします。
子供は、より素直に受け取りますから、どういう思いを込めているか感じたります。
『(うるさいから)泣くな』なのか、
『(強い子に育って欲しいから)泣くな』なのか。
つまりは、自らの欲のためか、子に対する祈りを込めるのかということ。
そのどちらかを込めているのか、というのは、自らの葛藤が終わっていないと子に対する祈りのようで、自己都合だったりということもあります。
自らが癒やされていないヒーラーが、ヒーリングすることが危いということと似ています。
…
『前提』の話に戻りますが。
その『前提』とは、言葉を扱う側の私、受け取る側の私が、『本当に自由であるのか』『本当に愛があるのか』ということを腑に落としているのかということであって、その『前提』によって、伝わり方の違いが生じるものと言えます。
自由や愛を掴んでいることを表現するときも、また、人によって全く異なる表現をされています。
これは良いとか悪いということではなく、事実としてそういう風に私は感じています。
真っ直ぐに自由や愛を感じて表現されている方
自由は制限の中にある、愛は永遠であり一生かけても到達するのは難しいという表現をされている方
でも、どちらも『無知の知』を落とし込んでいるすなわち、『愛や自由、真理についての問い』を持ち続けているので、その言葉に『自由』や『愛』を感じることができます。
うまく言葉にできないなぁ
当たり前のことなんですが。
その『無知の知』や『問い』を持つ方法が、『体験』です。
その『体験』は、想像することも読書することも含まれます。
それを実体験だと思い込むぐらいの想像、読み込みができれば、それらから得た言葉を自らのものにして、『自由』や『愛』、『真理』を多面的に見えるようなると考えています。
その過程で、『問い』は、増えたり、答えを得たようなことが起きたりしますが、後にそうでなかったということに気がついたりして、少しずつ洗練されてきます。
この状態を経験していくと、私は何も知らない、ということにも気がついていきます。
そうやって、委ねる、手放す、捨てる、全部同じですが。
より、純粋というか、洗練されるというか、真っ白くなっていくのかなぁと思います。