社会で過ごしていると。
そういう場面に遭遇することがある。
相手にそういう姿をみるということ。
しかしながら、私自身はその姿を見ていない。
ここがポイントでもある。
会社において、経営者と従業員の関係は、
日本において基本的には、親と子の関係になる。
会社の顧問をしている外部の私からは、
内部統制が取れていないことが
親子間の関係が悪いと観える。
仕事の内容から、子の話を聞くことが多い。
気づいたことは。
親と子の関係で現れている現象
と
子(従業員)と私の関係で現れている現象
は違うということ。
『親と子の関係で現れている現象』を私の現象と、錯覚するが、実は、私にとっての現象は、『子(従業員)と私の関係で現れている現象』であるということ。
人は、全てを一続きのストーリー、論理で捉えてしまい、それ以外ないと思い込む。
これは、会社を辞めるという選択肢を選べないと考える思い込みに近い。
『辞めたら次見つかるかな?』
『よいところだろうか?』
『また辞めるの家族は何でいうかな?』
など。
無責任ですが、『大丈夫』。
…
『親と子の関係で現れている現象』を私の現象と、錯覚するが、実は、私にとっての現象は、『子(従業員)と私の関係で現れている現象』であるということ。
に戻ります。
私の現象に親(経営者)は、現れていないので、どうにもできない。
そこをどうこうはできないと言えます。
私ができることは、
『目の前の子(従業員)が、何に囚われているか、何を訴えているのか』
ということを眺める。
正しく生きてきた者にとっての
『正しくない』
『真っ当でない』
ことへの抵抗。
その根底には、間違えてしまったときの罰や信用を損ねること、失敗することへの不安がある。
世の中には不条理なことがある。
科学でわからないことがある。
法律では裁けないこともある。
ということを分かってはいても、
『そりゃおかしいだろ』ということが、何度も重なっていけば、嫌だよね。
しかも、いつまで耐えればよいか分からない。
その結果が、崩壊だろうと思っていたら。なおさら。
って思う。
そうして、私が悪いんか?となるのだけども。
これを『眺める』、この一呼吸ができるかどうか。
言葉にしてしまう前に、文章にしてしまう前に。
『眺める』と言われても分からないですよね笑
私もうまく説明できないし、うまくできない時ばかり、
この辺りをもう少し、言葉に落とし込んでみる。
まず、出来事が起こる。
次に、その出来事について知っている自分の体験が、あらゆることを想像する。
この想像した中には、不安からのものとそうでないものが混ざっている。
出来事が起きた段階で、感情が働いたら、『当たり』であることは間違いない、自分のツボを押された感じ。
そうすると『感情』➕『想像』が働く。
そのとき、『感情』が動いているので、『想像』したもののうち、どれが不安に基づくものか、そうでないかの区別がつかなくなる。
『不安』は、『感情』なので、『不安』な『想像』を引きつけ、『創造』となる。
ではどうしたらよいだろう。
『感情』が働いたときに、これ『当たりだ』と。
思えなくても、言葉にしてみるというのは、いかがだろうか。
『感情』が、働くのは、自分にとって思いがけないことだったりします。
それは、新鮮な『体験』でもある。
自分が気づかない、自分がいたという『気づき』なわけで。
それって、『祝福』でしょ。
という捉え方。
なぜ、『正しい』というものにこだわるか?は、人によってそれぞれ。
それは、『当たりだ』と思って、眺めてみたとき、思い出した過去の出来事、友人、家族にヒントがある。
そこまでいけば、本当はわかってる。
あとは。
ある程度『眺める』ことができたなら、逃げていいと思う。
『逃げる』ことが、正しいこともある。
その線引きはわからない。
熱湯に浸かって何まで耐えられるか?
これは、人によって違う。
だけど、50度に浸かり続けたら死ぬか、重症を負うでしょう。
40度だったら耐えられる。
じゃあ、45度だったら?
人生にはこういった数値はないけど、肉体や精神は、これ以上はまずいってところが必ずある。
この個体差はかなりあるので。
…
自らが気づかなければならない。
それが『体験』。
気づけば気づくほど、終わりはない。
…
カルマと言われているものについての考察。
最近気づいたのですが、人類がみな兄弟であるので。
一人一人が人類のカルマを引き受けていると捉えることもできます。
その中で、それぞれが担当していたりする感じ。
何が言いたいかというと。
この『気づき』の多い人は、多くのカルマを引き受けていると言えそう。
それは、直接自分がということだけではなく、いるだけで隣にいる人に「気づき」を与える。
あ、それがライトワーカーか笑