目の前で起きる現象について、少し距離をとる。
それは、私の問題ではない。という意識が働いている。
しかし、何度か目の前に起きる。誰かが嫌な思いをして去るという現象は、あまり気持ちの良いものではない。
これを私に引き寄せてみる。
相手も人間であるので、やりたくてやっているというのは、事実である。
しかしながら、私が感じているほどの何かを本当に感じているかは、定かではない。
というこたは、それは、私がかつて感じたものの再認識、リフレインではないだろうか。
そう既にほとんどなくなっている私のかつての体験の感情が、目の前で起きている。
だか、私はそこに介入することはできない。
介入するには、遠い距離にいる。
これが、今の私とその感情との距離。
その今目の前の誰がしている体験をかつて私もしたことがある。
その体験を少し遠くから眺めている。
どうすることができるのか。
どうすることもできない。
人は、ひとを救うことできない。
自ら解いていくほかない。
せいぜいきっかけ程度だろう。
私は、私を眺めている。
違うように感じて、去っていった者たちの姿は、全てかつての私から生じた可能性だろう。
かつて、私がそのような場面でまた思った姿が現れている。
だから、『私は、私の思うように共感している。』
それは、共感して当たり前と言える。
私がしたかつての思い、感じた姿なのだから。
また、一方で
相手にとってもそれが今必要なこととして起きている。
そういう思いを終わらせたいから、私の元にきたのだろう。
…
思い出した。
皆、辛い体験をしながら、『ありがとう』と言って去っていく。
その『ありがとう』が、ただの社交辞令には思えなかった。
私に対する思いがまたなければ、何の言葉もないはずだろう。
私は、その『ありがとう』に寂しさとかつての私の救済される何かを感じている。
私が、かつて欲しかった救済を果たしているのだろうか。
…
その『理不尽』なるものの正体もまた私の可能性の姿と言えよう。
僅かながらの人生であるが、今日までの友や家族との出会いがなければ、私もあのような『理不尽』の対象に成り果てていたことだろう。
彼もまた『理不尽』に囚われている。
彼なりの『理不尽』によって。
思い通りにいかないのは、周りのせいだという思いが、見えてきた。
そうだね。
だから、無理矢理我を通そうとしている。
経営の根本に、論理は必要ない。
論理は、あくまで補助的手段である。
その根本の心にある曇りに気づかなければ、目の前に現れる曇りの正体が自分の思い込みであることに気づかない。
曇りは、不足感。
見えないからないと思ってしまう気持ち。
誰々がいるからダメなのではなく、他人は関係ない。
外側にある他人は、常に自らの心の曇りの影である。
曇りは内側を見ようとしない限り分からないということは、私は私の領分として、黙ってやればよいのである。
そうすると、いつの間にか、曇りは消えている。
私にあった曇りは、かつての私、可能性の私の感情。
そうすると、そこには、悲しみに溺れる共感とかエネルギーが奪われるということを超えて、全てが私だったということだけ。
エネルギーは何も減ってやしない。
それもまた錯覚。
たとえなくなっても、すぐそこにあるから。
無くならない。
立っていれば流れ込んでくる。
正確には内側に意識を向ければ流れてくる。
…
誰かに話すという行為は、自らのうちにある何らかのエネルギーを放散する行為であるので、相手によっては、単純に跳ね返ってくる。
それは、反論や可能性について、そしてその内容は自らも思い当たっていることでもあるが、違うと『判断』したものだったりする。
不快になるのは、思い通りにならないからだ。
繰り返しになるが、『思い通りにならないということは、心の曇りが、映し出されている』のであるから。
外側に発するのは、解決策とはならない。
解決というものがあるとすれば、内側にしかない。
…
『間違ってもよい』
『大丈夫だ』
そう言葉にしてみよう。