思っていることを伝えるということは、とても大事なことで、大切なことですが、やはりそれが自分のためなのか、相手のためなのかというのは、考えてから、発した方がいいなぁと感じました。


自分がスッキリするために言葉に発することも否定はしませんが、相手はそれを言われても…ということにもなりかねません。


もちろん、伝えても気にされない方もいますので、助けてもらってもいいかもしれません。


それにしても、イライラしたり、悲しいときに、それを判断するのは難しいですが笑



一人の時間の中でゆっくりと事実を眺めてみる。


最初は、何でだろう?と『問題」意識を持ってみてしまうこともあって、想像が創造を生み、悪い方へいってしまったりしますが。


その奥、その出来事を自分ごとに引きつけてみると、


『自分がどう捉えているか』


人と話するのが怖い。


話が伝わらないのが疲れる。


失敗するのが怖い。


嫌われるのが怖い。


と色々ある。


で、



『その癖はどこから来ているか』


もう少し奥に向ける。


『ズレ』なんだなと。



思ったことが直ぐにできないことによって生じるズレ


そのズレがあるから、こんな目にあうという『被害者意識』もあったりする。



そうこれはまだ誤魔化している。


「被害者意識がある」ということは、まだ奥のところまで降りてきてないので、エゴによる誤魔化しなんだけども、『被害者意識があってはいけない』と思ったとしたら、それと誤魔化しに見事ひっかかってしまっていると言える。


そういうふうに感じてしまう自分もいたんだという事実を受けて留めて、捨てる。


この過程が大事です。


人によってはこの『外側に対する言い訳』が手を替え品を替え出てくる。


こんな風に思っていたんだと俺。というのを受けとめられるか?


感じるだけでいいのだが、その感じるだけを思考が遮る。誤魔化す。




さらに


その内自分自身が嫌になってしまうかもしれない。

こんなこと思っている自分に。


これは、外側に理由を求める『被害者意識』の反動。


こうやって、『思考』は、上下左右奥手前と手を変え品を変え、『中心』を揺らしているということに気がつければ、もう少しだろう。


『そう思ったことを否定することなく、そう思ったんだね』ということで、受けとめたら捨てる。



こうやって、奥にたどり着く。


そこには明確な何かはない。


『えっ、結局理由はなんなの?』とおもうかも


その明確な理由を求めるのも『思考』



最後は、何もない。


理由をつけることもできる。


『思考』が、納得するために一時的な理解途中経過としての結論を与えるのも全然あり。


少しずつ少しずつ奥の底へ向かう。



何もないと書いたが、あるとも言える。


自分がいる。


そして、それは思考では「わからない」ということを受け入れることでもある。


(私も最近よく『無知の知』が出てくる)






私はいつもこういう大変なことが起こると思ってしまうこともあるが、それは、いつもであっても同じではない。


少しずつでも確実に『思考』の螺旋を降りて、『魂』の螺旋を上がっている。



降りた分だけ上がっている。



ここで、最初の自分のためか、相手のためか?に戻ると。


自分より相手が同等かそれ以上に成熟している場合は、この思考の螺旋階段を降りる手助けをしてくるが、そうでない場合は、目の前に違う問題がぶり返したりして、あまり心地よかない波動として経験をすることになる。それもまた思考の螺旋階段を降りる行動の一つであるが、道を間違えやすく、遠回りしやすい。


相手が怒っているか、優しく聞いているかは関係ない。



で、実はこの質問あまり意味がないのだ。



相手に言っている時点で、相手の承認を得ているとも言える。それが、悪化させようが、良くしようが。


相手のためにもなっているということ。

相手の思考は、人によってはふざけんなでしょうが笑


相手にも同じことが起きていると言える、気づくかどうか、どこまで気づくかはもちろん相手の自由意思。



実は気づきを促進してくれたりしている。






一人で抱えても昔より思い悩む時間はかなり短くなっているなぁ



自分が内観で何をしているのか思いつくまま書いてみました。