全ては与えられているという言葉は、『完全』であるという風に捉えることもできますが、もっと根本的に捉えることもできます。


全てが与えられているというのは、自分のものなど一つもないということでもあります。


『全ては完全だ』という捉え方をすると、エゴは望んだものは全て叶うという風に錯覚します。


もちろん望んでここにきたわけですから、全てが叶っている状態なのですが、エゴが思う望んだものは必ずしも叶わない場合があります。


これは、『神との対話』でも書かれていることですが、「〇〇が欲しい」という望みは、「〇〇がが欲しい」という状態を永遠に想像し続けるというものです。

エゴは、望んでいるのに叶わないという体験をすることになります。


『完全である』ということは、不足がないということとも言えますが、それは、全ては与えられているので、じぶんの所有するものなど一つもないのですから、そもそも所有、不足という概念がないということです。


それを持って『完全』ということです。


所有することを完全とすると、それは不完全を生み出すという堂々巡りになります。


ふとすると、目の前のことにだけ目がいってしまって、あることが当たり前になってしまいます。


全ては与えられているのが、私のなのに。





とは言っても、目の前で日常というストーリーは広がっていますし、何も動いていないと何も変わらないようにも思いますが、これもまた錯覚で常に何かを選択しています。


運命は、命を運ぶので、上りもあれば下りもあるし、沼のようなところやコンクリートのようなところもあり、そのスピードや内容は様々。


運命の輪


という言葉が浮かびました。


運命が、命を運ばれるとき、輪のように回っていくということです。





大枠の中で選べることもあり、それが本当の自由というものなのでしょう。


自由であることを感じるためには、制限が必要です。


自由を体験するために生まれたというのなら、制限を感じれば感じるほどに自由を得られると言えます。


それは、自らの内側に。


外側に求めると制限に執着する人生で終わってしまうこともあります。


それでも最後は、開放されますからそういう体験か、ということに気づくことになります。






自らの地域から出たことのない方が一定数いらっしゃいますが、その自由たるや。


私の祖父もそうですが、自らのエリアで終わりのない遊びをしています。


若い人からみたらとても不自由でしょうが、事実はそうでもない。


与えられたもので、遊ぶ達人がいたことを思い出しました。



田舎でベンツ乗り回していたり、工場改造したり、風水に沿って庭を配置したり、家を設計したり、作物を育てたり、船買ってみたり。


それこそが、人が持つ叡智なんだと思います。


全ては与えられているということを知っているんです。