静のようなものもまた、動であるから、そこに存在しているし、動のようにみえるものもまた、静のように見えるものがあることで、動を感じることができる。


全部宇宙エネルギーだからさ。

という、飛躍した言い方をしてしまったら、終わってしまうので、あえてわかりにくく言葉にしてみたいと思う。


『絵』というものが、なぜあれほどまでに『動』を感じるのか?ということを考えると面白い。


『絵』は確かに、動かないので『静』である。


『静』であるが、その絵の具一つ一つは物質を形成し、そこに存在しているということは、その『絵』が書かれたときから引き続きその絵の具の分子原子は、振動しながらそこに居続けているということ。


その物質としての振動は、ずーっと『動』として、その絵の描かれた時代の空気、作者の力、筆の繊維、かすかな部屋の光を取り込み、そこに存在し続けている。


その内に秘められた情報としての振動の『動』たるや、どれほどのものでしょうか。


少し霊的な視点を付け加えるなら、この『絵』が描かれていた瞬間というのは、常に作者の視線という「認識」とその作者の存在のエネルギーフィールド内にある続けたという意味で、その作者そのものであり、その作者の捉えた何か、思いそのものであると言える。


その作者の思いを『現代』まで維持し続けているというのは、『静』のようにみえる『動』としか言いようがない。



これは、『書』や『音楽』にも言える。


時空を超えて存在するものは、『動』である。


その背景の『静』が、『動』を際立たせる。