帰ろう
直観は知っている。
理詰めとは、直観を支える理由の積み重ねである。
理由とは、ある行為を自らに納得させるために、既に自らが信じているもので行う補強である。
つまり、直観があったときに既に決まっている。
直観を信じるために行う信念体系は、その直観をいかに現実化するかという点において、重要。
これは、元より直観的な人にあっては、容易であるが、なぜそれが容易であるのか、他人に説明することは難しい。
他方、元より科学的な人間にあっては、その直観の行動の為に、外側に理屈を探すことから、勇気を必要とする場合が多い。
それは、外側にあっては、自分はいないので結論は無い為である。
しかしながら、直観を支える理由を探すという行為は、外側にある理屈であっても、その直観を補強することで、信念=現実化を高める作用を持つ。
特に、過去の偉人の物語や言葉、自分がかっこいいと思った映画のセリフや歌の歌詞は、外側の誰がか作ったものでありながら、私の現実化の信念体系を強固にするものとなる。
共鳴をすることで、その人物のエネルギーを取り込むというイメージであろうか。
そうやって、直観を行動に移すのも良いのではないかと思う。
何か行動をしようとするとき、現実的な手段を考えると、お金や時間の問題に遭遇する。
注意すべきは、こうしたらお金がもっと節約できるとか、この間のあたりにすればもう少し儲かるだろうもか、いう欲が出てきたときに、それを理論的な思考と捉えて考えを進めないようにすること。
これは、論理的なようで、消極的で曖昧でどっちつかずで、何にもならないということになりかねないからである。
初動の直感としての躍動が失われた状態と言える。
何かを選ぶとき、何かを捨てることになるのは、当たり前のことと、理解していても、あれこれと複雑に思考していくと、その最初の捨てるという覚悟らしきものを忘れてしまうのだ。
そんなときは、一旦忘れて。
ただ、単純に自分にとってどういうのが、心地よいのかというのを思い浮かべるのが、吉と言える。
ただ感じて祈る
『帰ろう』
どこへ帰ろう
どこでもいいよ
あなたの懐かしい場所
暖かい場所
行ったことのない場所
帰ろう
いつでもいいよ
私がいても、いなくても
懐かしさが残ってる
かつていた場所