目の前のことに集中することは、今を生きることですが、『目の前のこと』と言いますと、その『出来事そのもの』に集中しがちです。
そうすると『入り込み過ぎ』てしまいます。
『入り込み過ぎ』てももちろん良いのですが、その場合は、自覚的に『入り込み過ぎ』たほうが、エネルギーの消耗は少ないでしょう。
どうなってもよいと思っていれば、『期待』や『裏切り』による気持ちの上り下がりを味わうことは少なくなります。
では、『目の前のことに集中する』という言葉の真意は、どこにあるのでしょうか。
それは、『目の前のことを行なっている自分の心に集中する』ということではないかと思います。
どう感じているか。
『出来事』に集中すれば、『不安』からくる『期待』と『裏切り』に突入してしまいます。
これを『自分の心に集中する』とどうなるか。
『祈り』と『委ねる』になります。
敢えて『神』という概念を『人』と分けてみますと。
『期待』は、『私』と『他人』との関係に存在するものですが、『祈り』は、『私』と『神』との関係において存在するものになります。
『神』に『期待』するという風に使う方もいますが、これは、『人』と『神』を同列にみて、『神』に人格を求めているため、大体にして『裏切ら』れます。
この場合、人が『期待』している対象は、実は『神』ではありません。自分自身です。
だから、その『期待』が成功したときは、大体にして自分の手柄としてしまいがちです。
自ら『神』を『裏切る』という感じでしょうか。
どこまで行っても、『エゴ』に振り回されている感じですね。
私も自分の心に集中しないで、惰性で動いていると、無自覚にこの思考に囚われていたりするので、まだまだなのですが。
…
何でこんなことを思ったか。
やすぴよさんのブログで『一貫性』について書かれていて、コメントをさせていただいたとき、自分で書いて、ようやく気づいたことがあったからです。
原理は頭では分かっているのですが、自分がやってしまっているからその現実が反映されていることに、無自覚だったんですね。
すると今度はすぐに
『分かったからってどうしたらいいんだ?どうしようもないじゃないか』とエゴが畳みかけてきます。
「確かに笑笑」
そう確かにそうなんです。
何に気がついたかと言いますと、
『一貫性がない自分を認めつつも、まだ一貫性がないことを認められない気持ちが残っていた』
ということです。
ほとんど溶けてしまっていることなのですが、まだあったんですね。
それが、私にとって痛く、面倒だと思っているところでもあります仕事のクライアントという鏡で起きていました。
(ここで『起きていた』とすることに意味があります。)
「仕事や勉強で一貫性を持つことは当たり前のことだ」という癖ですね。
そうやって生きてきた30年間がありました。
その一貫性を保つための辻褄合わせが、とても得意でした。
根拠を用意することがとても得意でした。
それによって取り越し苦労も多かったです。
もうそれも終わりなんですね。
そういう意味の現象も家族を通して起こっています。
『一貫性』を保っていると思っていた物事の崩壊です。
この辺りは、皆さんも感じていることがあるのではないでしょうか。
例えば、わかりやすいことは『オリンピックの開催の可否について』
『一貫性』を感じますでしょうか。
既に少なくとも「4年一回」という一貫性が崩壊しています。
あとは、身近なことで言うと、これは妻が指摘したことですが、TV CMについて。
最近は特に『食事』『健康』『お笑い』『ニュースバラエティー』が多く、特に『食事』と『健康』が目立ちますね。
この『食事』と『健康』についての番組の間に流れているCMに注目してみてください。
虫を殺す薬や口の中の汚れ、洗濯の汚れの話に溢れています。
それは、番組のスポンサーなのだから、しょうがないという意見もありますが、それも一つの一貫性でしょう。
しかしながら、『番組』としては、『食事』『健康』の話をしながら、その間では『汚れ』や『人体には良くない化学物質』を平然と表現しています。
みている人のことを一番に考えていると言う視点では、一貫性がありません。
商品を売るという視点では合理的で『アメ』と「ムチ』みたいな。
「食事」の消費を番組で刺激して、CMで『汚れ』と『健康』のためにこれを買いましょうと放映しています。
つまり、何が言いたいかと言いますと
初めから人間がやることに一貫性なんかないんです。
全て、自己都合とも言えます。
特に、外側に一貫性を求めているときは、ほぼ間違いなく自分の都合です。
なので、一貫性をもつとは、その時々にそれぞれの中でその心に真っ直ぐであること以外ないのではないかと思っています。
志を貫くというのは、その現実化の際にその時代によって、やることが変わります。
でも、それは志が変わっているのではなく、外側から見たとき、時代に合わせて手段が変わっていることが多いです、
仮に、『志が変わってしまったと思った』としても、現実に落とし込むために、その原初の志に戻ろうという本気の思い、負い目、自身に対する情けなさを持って死ぬまで生きるのであれば、それは貫いたといえるのではないかと思います。
そして、その一貫性は、本人にしかわからないものなのです。
あと、相手に求めなくなると、『寛容』になれますね。
自分がもし雁字搦めになっているように感じるときは、周りに求め過ぎていないか、または自分に厳しくし過ぎていないか、ちょっと『問い』を持ってみてください。
『問い』こそが『神の言葉』だった。
私の大好きな方の言葉です。この言葉を聞いたとき、モーセやジャンヌダルクなど歴史上神の声を聞いたという人物の話が、とっても腑に落ちました。『問い』であるからこそ、その実行には『自らを信じぬく』ということが肝になるように思います。