この世の中、特に心の作用というものは、内側に行った分だけ、外側がよく観えるという具合に常に逆説的です。
これは、宇宙そのものがそういう作用で成り立っているのですから、心も当然そうなっているということのようです。
惑星は、内側に集まって塊となります。
そして、外側に遠心力が働きます。
内側に内側に重力に引かれてクズが集まって惑星は大きくなり、外側への遠心力も強まります。
作用は、内側が先のようです。
この内側に向かうとき、向かえば向かうほど、軸ができます。
軸ができるから、遠心力にも耐えられます。
心もまた同じ。
それぞれが自らの内側を観るということ以外にはない。
それを言葉で言うと
『ただ一人で生きる』
ということになります。
現実的には、家族や友達がいますが、その友達や家族の反応を観て、何を感じるかは、自らの内側次第であり、その感じた何かを他人が理解や推し量ることは、不可能です。
だから、『ただ一人で生きる』ということになります。
もちろん相手が何を感じるか?というのは、相手次第なので、私が『ただ一人で生きる』ことをしていても、勝手に感謝されたり、怒られたりします。
そのぐらい、誰かを本当の意味で理解することは難しいです。
別の言い方で言いますと
『自分軸で生きる』
ということでもあります。
自分軸で生きる覚悟というのは、
『理解されなくてもよい』というものだったり
また『私は全てを救う』というものであっても
同じです。
更に言えば、『私は相手を全て理解したい』という覚悟が有れば、それは誰も成し遂げたことのない立派な覚悟であり、自分軸であると言えます。
その過程で、どうしても相手を認識している自分が邪魔になることに気がつきます。
そうすると、自分のことがわからないと相手の全てを理解できないということに気がつきます。
そして、自分に向かっていった時にやっと、相手のことも少しわかってくる、その程度のことのように思います。
何書きたかったか分からなくなってきたな笑笑
いつものことですが。
『底』や『中心』や『空』、『間』、『ゼロ』、『絶対負』と言われているものが、主であることは、それすらもないと思えてやっと辿り着けるかどうかというところで、行ってしまった又は行っていたことを思い出した人にとっては、大したことではないのですが、そこに行ってない、いたことを思い出せない人にとっては、とても難しく、苦悩に満ちたものであり、そもそも言葉が通じないという現象やその上部の心地よいところだけを受け取って、錯覚してしまうという現象を引き起こします。
人間意識は、早く楽になりたいという気持ちが強いので、線を引き、ゴールを設定して、誘惑する。
それを多くの偉人が、幻想だと言っています。
現実は、今目の前にしかないのに
釈迦の前に最後に現れたの存在は、なんだったのか。
キリスト教や武士道にある激しさと厳しさは、多くの地球人にとって、肉体的な自分の感情を乗り越えるためにどうしても必要な教えだったように思います。
般若心経において、悟ることすら否定しているのは、悟ろうとするエゴも消し去れということです。
それでも肉体がある限り、どこかにエゴがあります。
生まれた家系や地球での転生回数によって、その地球人独特な性質は、重いものになっていますから、それだけでも気づく人気づかない人。伝わる人伝わらない人、それぞれです。
宗教やスピリチュアルなことがわかっていない方が、自然と体験して乗り越えて、乗りこなしてしまっている人も多いのかもしれません。
『ただ一人で生きる』というのは、
かつての宗教や神道、武士道的な言い方をしているだけです。自らを戒めている感じです。
自分軸を得るための心構えと言いましょうか。
自分軸を得るためにって思考がもうダメなんですけどね笑笑
まだまだです。
全てを自分の責任で今を生き続けることの結果が、軸になっているとそういうことです。
自分の責任で生きていますから、現代は一昔前より確率は低いとは言え、死ぬこともあります。
まあ、でもみんないづれは死にますから。
早いか遅いかということです。
早くても遅くても自らの意志で今を生きたいものです。
自らの意志で今を生きていれば、不満も不平も消えることでしょう。
分かったような分かってないような言葉ばかりで
てきましたが、そのまま残しておきます。