体験とは、自らが自らを知るという行為であり、自らを思い出すということでもあります。


体験をすると、人間がどれだけ不思議な存在であるかということを知ることになります。

自ら体験することでようやく分かります。


神様がいるとして、その存在が自らを知りたいと欲したとき、全てが始まったという説は、割と好きです。

自分が神様の一部になることで、他の一部と関わる中で、体験をするということをしているらしい。

他の一部とは、人間だけでなく、動物も、ものもすべて。

自らを俯瞰して見られるようになることは、それだけ神様だった頃を思い出したともいえます。

神様の一部としてのその一部が広がったという感じです。

この広がりは、体験するたびに広がります。

その体験の中には、『私は体験が少ない』という体験も含まれるために、少々ややこしいことも起きます。

体験が少ないことを経験するというのも、やはり体験のように思います。

もう一つ、分かりにくい例を言いますと、何かを思い込んでいる体験をしている人もいます。

本当はレムリアを体験していないのに体験したように思い込むとか。

そのことに興味もあり、その時のことを思い出したと言っても、もしかしたら、それ映画のように映像のように、覗いていただけかもしれません。

kuさんが、先日そのようなお話を書いてましたね。

映画を観て、その主人公だと思い込んでいるというのです。


私は、『ガタカ』という映画が好きなのですが、ビンセントにも、ジェロームにもなりきるぐらい思いを重ねています。

でも、私はビンセントでも、ジェロームでもないのです。

足を切り落として身長を伸ばすことも、車の前に飛び出すようなことも体験はしていません。

でも、そういうシーンをみて、そういう気になっています。

そういう思い込む体験が悪いということではなく、思い込むという体験をしているだけなのです。



あとは…

体験をしていないという風に思い込むという体験もあります。

他人から見たら、なんで忙しい体験だからけの人だと思っても、本人は何にもしてないと言っていることがあります。

それは、何もしていないのではなくて、エゴである自分がしたいなぁと思っていることをしていないだけであって、「何もしていないと思い込む体験」をがっつりやっています。


動いていないと、ネガティブに思ったり、何もしていないと思いがちですが、
存在している限り、体験をしていないということはないのです。

スキューバダイビングをしたとか、海外に行ったとか、誰々を助けたとか、わかりやすく、かつ、いつもと違う行動は、『体験』をしていると体感しやすいですが、かと言って、朝起きることやご飯食べることその時間や内容がいつかと一緒であることは、あり得ません。

我々一人一人の日常は、全てちがうので、全ては非日常であるようにも思います。

日常だと思っていることが、錯覚といいますか。

それは、エゴが『日常だ』と思うことで、「安心」しているに過ぎないのです。


なんで、安心したいのでしょうか。

安心というより、安定したいのです。



あー、なんか書いていたら、勝手にスッキリしてしまいました。

もう少し思ったことがあったのですが。


これは、私にとっては、俯瞰し、瞑想する方法などなのかもしれないです。


ただただ思ったことを垂れ流しました笑