情報ってどこに記憶されているのでしょうか。

水が情報の媒体として、優れているという内容を二つほど目にしたので、ちょっと書いてみようと思いました。

で、一つの答えとしては。


水の中っていうことになります。



水は、体の中にありますし、体の外にも水蒸気として存在しています。


体の中にあるということは、自身が何かを経験したときにそこにいるということです。

さらには、感情が芽生えたときもそこにいるということです。

体験や感情を発するとき、何かしらの衝撃があります。

それは、文字通り物理的な衝撃もありますが、感情というか電気信号的な衝撃的もあります。

それが、体の中の水に伝わるというのは、想像しやすいように思います。


そうするとそういった微細な衝撃としての振動を揺れ続けながら、水の中に留めておくそういう力があるように思いました。

書きながら思いだしたのですが。

近くの神社の池の水面に景色が反射している様子を見てみると、ほとんど鏡のようになっているのですが、微妙揺れているんです。

風や虫や木の葉が落ちるのだから、当たり前のことのように思いますが、その揺れは微細にずっと水がある限りどこまでも広がり、重なり、揺れているんです。

ぽつんとこちらでできた円の広がりを見ていました。

波打ちながら全体に広がり、別方向からの円とぶつかってもそのまま広がり、たくさんの円と重なり、ある一点を見たときには、それが円だとはわからないような水の揺れる模様になっていました。

今こうして、記事を書いているテーブルに置いてあるペットボトルの水面も揺れています。


物質は、全て止まっているように見えても振動しているということを見えるように示してくれているのが、水なのかもしれません。


ということは、水でなくても物質にも記憶が振動として残理想だなぁとか思いますが。

人間の中に沢山ある水というのが、重要なポイントのように思います。





言葉というのも、記憶の中にある範囲で解釈がされます。

どうやら違う次元の記憶は、メンタル体やアストラル体にもあるようなので、全てが水の中にあるようではないようです。

地球の人間としての記憶というのが、範囲のように思います。

で、解釈についてです。


体験や運命もそうですが、自分が経験をしていない以上のことは分からないので、そもそも解釈ができません。

体験してないからという一言でいうこともできますし、次元が違うからということでも説明できます。

上とか下の「差」ではなく、「区分」が違う感じです。

解釈は、自分の区分の範囲でしかなされない。

しかも、それは多くの場合、理性的でありながら、頭で考えているので、合理的なものしか受け付けにない。

その合理性もまた、自分の区分の範囲をでません。


もしも、解釈で理解をすることができるとすれば、自分の区分にとって不合理な解釈を受け入れることが出来るか、そういうものがあると存在を認めることができるかということです。


おお!思い出した。


『あり得ないなんてことは、あり得ない』

最近、鋼の錬金術師を読んでいてですね。

心に響く言葉多いです。
敵味方問わず。




『等価交換』という法則を是とする錬金術師=科学者が、真理を目の当たりにしたとき、それでも神という存在を認めなかった。

認めなかったんだけども、『等価交換』を覆すことが出来るのが、『人間』だと気づいていく。

凄いですね。


それは、『人間』の『自然』『意志』の部分。

錬金術(=科学技術)による真理の追求の捨てたところにあるというのが、なんとも面白い。

ここが人間の面白さというか。ならではの体験と言えます。

追い求めていたもの=執着と幻想を捨てるということができるのが、『人間』なんですよね。


追い求めるのが悪いのではなくて、それは素晴らしいことで、そんなことしなくても『あった』って『自然』の中に気づける。そして、「意志」によって選択できるというのが『人間』なんだとそう思います。



鋼の錬金術師の中で、赤ちゃんを取り上げるシーンがあります。

主人公は、『対価交換』を無視した「妊娠、出産」という行為にとても感動します。

最初から『自然』の中に『あった』んです。



それに気づける体験ができるのが、肉体とたましいの融合により顕現する「人間」という存在なんですね。(くどいですね笑)




昔、私は『理解はできるが、納得はできない』という言葉をよく口にして、同級生にからかわれていました。


最近は、『理解はできないが、受け入れることはできる』ようになってきているように感じます。

言い換えれば、『理解はできないが、納得はできる』

そういう存在もあり、ああいう存在もまあありなんじゃないかなという感じです。


合理的なものが、不合理なものによって支えられていますから。

そうすると

『あり得ないなんてことは、あり得ない』

わたしは違うけど、そういうひともいてもいいと思えるのかもしれません。