何度か書いてきたことがあるような内容ですが、なんとなく書いてみようと思いました。

「機」「度」「間」

何事もほどほどが大事で、そのほどほどをやり過ぎてしまうとおかしくなってしまうことを昔から多くの人が戒めていました。

それは、陰陽でも同じく、陰が極まれば、陽に転じるという様に、そういう作用があることを感覚として理解していたのでしょう。

陰が、陽に転じるなら、いいことの様に思いますが、何が「陰」か、何が「陽」かは、示されていないのが、ポイントです。

ある人にとっては、『陰』であっても、別の人に『陽』であり、さらに別の人とっては『どちらでもなく、ただそういうもの』という認識だったりします。

その現象や流行、制度、決まり事が、いき過ぎていることを感覚的に分かるかということが、肝です。

これを生まれたときから、感覚として持っている人もいますし、カラダのことに限定すれば、「なんとなく」分かっている人をいわゆる天才と呼びます。

ただ、外側にある現象、流行、制度などを考えたときは、自らの体を離れるので、「知る」ということが大事になります。

「知る」対象は、「歴史」です。


過去の歴史とそこで生きた人の言葉を知り、感じることで、過去の現象、流行、制度などの事実と感情を感じることができます。

これは、『垂直の繋がり』に属するものです。

人間の歴史は、過去があって現在があり、未来に繋がっていきます。

親がいて、私がいて、子がいるということも同じことです。


先程の「陰」と「陽」が、それぞれ何であるのか、極まるとはどういうときか、を知る方法が歴史としての『垂直の繋がり』を理解することで、見えてきます。


現代の繋がりは、「今」を生きる人同士の繋がりとしての現象、流行、制度、決まり事によって支配されている「度」合が強く、歴史といっても、明治維新以降の現代日本の歴史程度の分析によって、判断されているため、『水平の繋がり』による圧力に負けてしまっています。


江戸時代と「今」は、全然違うんだから役に立たないでしょっていう歴史観そのものが、危ういと言えば、分かりやすいかと思います。

そういう人は、江戸時代にはスマホないじゃんというような論理を展開することでしょうが、その局所をみてしまえば、そこで思考停止です。

そうではなく、重要なことは日本という国の資源だけで、江戸時代がなぜ400年も統治が続いて平和の世を築けたかということです。

400年外側に依存することなく、循環する社会があった。

もちろん、悪い奴はいたことでしょう。
刀があるぐらいですから、治安も良くない場所もあったでしょうが。


もともと自国で循環する方法があったということです。

では、江戸時代に戻れというのかという反論がすぐ出てくると思いますが、そういう極論は意味がありません。

自国で循環する方法を現代に活かすことは何かないかと工夫を凝らすことが、大事なんだと思います。




今ある最新技術の本質の多くは、昔からある原理、習慣を別の魅せ方にしたものがほとんどであることを忘れてしまっています。

忘れてしまっているということは、その方々への尊敬、畏怖を持っていないということでもあります。

私が発明したという思い上がりが、それです。

新しいものというのは、そんなにないように思います。

たまたま昔からあったものを『発見』しているようなものです。



『民主主義』という政治形態そのものも、昔からありました。

素晴らしいものとして、多くの国で導入されているはずが、争いやデモは無くなりません。

人権は、信仰よりも重視されている様に思います。

水平の繋がり(比較)が、垂直の繋がりよりも重要であるかの様に、水平こそが『現実でありリアル』であると、垂直(信仰や祖先)は『目に見えない』から現実的ではないとされてしまっているようにも感じます。


垂直の繋がり(軸)を持って、水平の繋がりを持つのが、人間であってほしいと思います。


うまくまとまりませんね笑