それぞれの人に背景があり、その背景によって今ここにある点としての光があると言えます。

その背景が何となく気づいてしまうと。

罵られようが、相手を責める気持ちなくなっていきます。

もちろん、罵られたり、敵意、悪意、嘘を向けられるとそのときは嫌な気持ちになります。

人間ですからね。

でも、もともとはこうなりたいという思いから、踏み外しているその姿に気づくと、大変だなぁと思い、さらに時間が経つと、そういう楽しみ方をしているのかぁと思ったり、宇宙に帰れるんかなぁとかそういう壮大な方向に思考が行ってしまいます。


彼もまた自分ではどうしようもないところまで来て、私に出会って、もしかしたら追い詰められているのかかもしれません。

彼女もまた自分ではどうしようもない状態を壊すために私に出会っているのかもしれません。

私は、私で誰もやらないから、大丈夫なやつとしてやらされているのかもしれません笑

たまたまそうだったということなのでしょう。


昨日はちょっとしんどかったけど、今日には終わってる、そういう袖のすりアイがあったということ。

それもまた愛なのかもしれません。


ありがとうも、さよならも、同じような言葉に感じています。


記事を書いている頭の中で既に完結してしまって、言葉に落とせないことがあります。

瞑想状態みたいな感じでしょうか。

様々な人の言葉を思い出して、

様々な人の行為を思い出し、

それもまた私のためだけのものだとするのなら、

私だけの体験だったんですね。


苦しいのはやだけど。

それもまた消化していく


人はそういう強さも持っていると思います。



それを『忘却』と表現した人もいましたが、その『忘却』とは、運命を受け切るということであり、体験を味わい尽くすことであり、ある出来事の全てを愛したことの後に残る感覚のことのように思います。

ありがとう、さようならは、その感覚を内包する言葉のようですね。