「馬鹿」というのは、いつの世も常識や世間から外れている者に対して使われる。

その「馬鹿」は、他人を評して言われることが多い。

自らに対して使用する際は、謙遜という形で用いられる。


ところで、「馬鹿」の正体とは何か知っているのだろうかと考えたとき、「馬鹿は、馬鹿だから馬鹿なんだ」というように、そこに論理はない。

その人にとって、理解不能だから「馬鹿」と名付けて思考を停止していると言える。

別の言い方をすると、その人の世界から拒絶をする言葉、呪文でもある。

その一方、「馬鹿」の方はどうかというと、「馬鹿」は「馬鹿」の世界を持っているし、この世や世間を生きている。


そう馬鹿も生きている。


わたしだって誰かから見たら「馬鹿」と言える。

「なんでそんな考えても仕方がないことを考える」ということは、昔から言われてきた。

そう、それはやはり「馬鹿」だからである。

わたしのは、わたし自身もわからないから大馬鹿」だと言える。


でも、本当に考えても仕方がないことだったかというとそうではない。

わたしにとっては。

考え続けるということは、「文章」「映像」「音」の創造性に繋がる。

自らでも後にならないとわからない。

今だって役には立ってないかもしれない。

それでも、言葉や音、想像に関する興味や独特な解釈は、持てるようになってきたことが、何となく嬉しい。




「利口」というのは、「馬鹿」の対義語になるが、わたしにとっては「合理的かつ効率的」なイメージが強い。

そして、「馬鹿」は混沌なのだ。


「合理的かつ効率的」というのは、自分も割と得意だが、そこから得たものはほとんど覚えてない。

「合理的で効率的」だったというだけで何かを生み出したような気はしない。


「馬鹿」なことの方がよく覚えている。


もし、「馬鹿」だと思ったら、それも愛してみるよいように思う。

その時は、無駄で非効率で非現実的で不合理なものであっても、それこそが人間ゆえの行動であるから。






「合理的かつ効率的」なものが、なんで良いとされるか。

それは、宇宙の拡大するエネルギーの流れに沿ったものだからと言える。

物質的なもののエネルギーの法則として、爆発したときが一番強いがあとの拡散は徐々に弱まっていくので、その弱まりというものが
「合理的かつ効率的」そのものなのだ。

人間が、物質的なものにフォーカスをすればするほど、「合理的かつ効率的」を極めていく。


その先にあるものは、平な平地、無振動、無感動の世界でだろう。


しかしながら、人には、心があり、魂がある。

「合理的かつ効率的」に傾けば、「混沌」の重要さにも気づく人が出てくる。


「多様性」という言葉も今の社会が言っている意味は、「合理的かつ効率的」の前提にあるものなので、その「多様性」は、おそらく分散しているだけの状態になるだろう。


また、違う人がいう「多様性」は、それぞれが自らの固有の言葉や思考を持ち、かつそれらを受け入れるということであって、そこには積極的な関わりが存在する。

分散していない。

お互いの引力と斥力を発生させながら、個として存在するような状態ではないかと思う。


「馬鹿」から大分違う話になりましたな。


まだ、少し表現しきれていないそんな思いがある。

眠いので

おやすみなさい。