最近、情報を得るということについて、少し変わってきたように思いますので、その感覚を言葉に落としてみたいと思います。
見ようと思わなくなった情報があります。
それは、なぜ見ようとしないのか。
エネルギーが違うというのも、そうかもしれない。
そう言ってしまうと、それで終わりなのでもう少し書いてみます。
情報というのは、興味があるから捉えるわけで、認識できると言えます。
興味があり、認識できるということは、この情報が既に自分の中にあるから捉えられるのです。
外側を見ているようで内側を捉えているような感じですかね。
ですから、良くないなあと思いながら、接する情報は、自分の可能性としてあるとも言えます。
もちろん、美味しそうな芋けんぴの広告もまたそうとも言えます。
良くないなぁと思ったら、その中身まで見なければ良いだけです。
捉えてしまったことに良い悪いはありません。
もちろん、中身を見たとしても。
しかしながら、往々にしてタイトルと中身が違ったりすることがあります。
結局は、中身を見るまで分からない。
その内容を吟味していた最後にある猫の写真に自分にとっての意味があるかもしれせん。
それだけで癒される人もいることでしょう。
まあ、何が言いたいかというと。
波動がいくら上がっても、変な情報のタイトルを見ることがあるということ。
見てもいいし見なくてもいい。
…
特に、文字からインスピレーションを得る私の場合は、私にとって鮮度の良い情報を得たときは、偶然が重なるということが挙げられます。
これってこういうことなのね。という納得感、腑に落ちるものがあります。
その情報の捉え方、他の方からしたら、なんでそういう理解になるの?っていう次元の解釈をしています。
でも、多分皆さんそれぞれが、そういう次元で違う捉え方をしているんだと思います。
花や看板が話しかけてくるという風に、説明される方がいますが、本人にとっては、そうとしか説明ができないのです。
だって、そう聴こえるのですから。
それは、イケメン声優さんのようなボイスで聴こえているわけではなく、波長を波長で捉えているということを『聴こえる』といっているに過ぎないのです。
分からない人からしたら、あなたの直感でしょうということ。
その波長を別の方法で感じる人は、凄い甘い匂いねとか、色が変わっていくねとか、他の五感に変換されて作用して理解するかもしれません。
それと同じように、私はおそらく『文字』からその波長を読み、他の本やテレビでの文字と繋げて、情報を捉えます。
しかしながら、それを繋げて捉える情報は、外側にあったわけではなく、元々内側にあったものでした。
分かりやすい範囲でいうと、過去に魂の経験としてやったことや得たことのある情報だったということです。
あとになって、あるほどあれが何度も出てきたのは、これやってたからねとか、分かったりします。
分かりにくい範囲でいうと、内側の宇宙には何でもありますから、上で言った過去世の話は、その時の私にとって捉えられる範囲の過去世の波動であり、それ以外にたくさんあります。
その時の私にとっては、他人の前世と言えるものまでも、実は今の私にとっては、私が経験したことだったり、そういう風に書き換えていたり。
それは、自らを思い出し、気づき、分かると自然とそうなっていくのでしょう。
今日はこんな感じで